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コロナという大義名分.3


そんなわけで定着して、多くの方々から選ばれるNo.1家族葬。
だけど、高齢の方々には一抹の罪悪感があった。
おじーちゃんの葬儀の時には何百人も来てくれて、大きな葬儀会場借りて…なのにお父さんにはこんなことしかやってあげられなくて…(悲しい)っていう、感覚でいる方も多かった。

ところが。
いろんな意味での罪悪感 ネガティブさを払拭したのがコロナだった。
少人数で簡単簡素簡略の、大義名分が立った!

本当に、葬儀を執り行うだけで精一杯だった。
誰かにウツサレルカモ?ウツシテシマウカモ?
そして、罹患したら死んじゃうかも…
未だかつてこんな状況、経験したことない!
みんなはじめて!

手探りで、日常生活を送りながら、非日常の葬儀を執り行う。マスクに消毒に、会食NG三密厳禁…

家族葬はこんな状況でも「救い」であった。
一番身近な家族が揃って見送れた、有難い。
人々は、強くそう思った。

何故なら、感染症で亡くなったら、家族の誰にも看取られず、シートにくるまれてお花の一本も添えられずひと目死に顔を見ることもできずましてや触れることも叶わず荼毘に付され。遺骨になってから返却されるのだ。

コロナで火葬される方。
防護服に身を包んだ葬儀社の社員が寝台車で遺体を火葬場に搬送する。密閉された柩は、こちらも防護服に身を包んだ火葬場の職員に預けられガラガラと火葬炉に運ばれてすぐに荼毘に付される。焼骨は、火葬場職員の手によって丁寧に骨壺に納められ白布に包まれ。防護服のまま搬送車で待機していた葬儀社の社員に手渡される。骨壺を乗せて走り去る搬送車。
たまたまその場に居合わせ、遠巻きにしていた(火葬炉には近付けない)葬儀関係者は。誰ともわからぬその人に。手を合わせ礼拝し、見送る。
冥福を祈る。誰かの変わりに。

志村けんさんの死で、広く多くの方々が知ることになった感染症で死亡した場合の最期。

緊急事態宣言発令中の葬儀は
・なるべく通夜は行わず1日葬で
・大皿の料理の提供自粛要請
・会話しながらの食事の自粛要請
・密を避けるための人数制限
・滞在時間の短縮要請

はからずとも、逆にお金のかけようのない葬儀。
人も呼べない葬儀。死を悲しむプロセスとしての時間や会話や振り返り…そんなものも奪われた。

けれど、益々定着するだろうな、家族葬。と、私は思っている。何故なら、このコロナ禍。
いろんなものやいろんなことを排除して。
遺族の故人を見送る気持ちが熱かった。
集まった誰もが適度な距離感を保ち相手を慮り、故人に語りかけ限られた時間を過ごしていた。

人間の不思議。

しばらくコロナ混乱は続くだろう。

この先、経済が立ち行かなければ葬儀など出せるはずもない。
風が吹いても桶屋は儲からないかもしれない。
慣習に任せてきた部分の多い葬儀。
死について語る時につきまとう、不謹慎とか縁起でもないとかいう感情が払拭されたらいいなあー。

街のお母さん食堂を作りたい!シングルマザー専用のアパートを運営したい!障がい者雇用を産み出したい!人生100年!社会とのコミュニケーションがないと人生つまらない!夢は壮大です。生きづらい世の中ではあるけれどもまだまだ捨てたもんじゃない!小さくても1歩目がなくちゃ未来は始まらない!