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宗教依存症

冠省  

こんにちは。marです。                        プロフィール書く、とか、生い立ち話す、というときに楽しいことが一つも浮かんでこずついつい正直に表現すると、暗めになります。自分がこの世で一番不幸でかわいそう、と思っていた時期もありましたが、いまではあまり気になりません。とらわれていた、自分、怖っ。                          まあでも、プロフィール、となるとそうなります。自分を知ってもらうために、生い立ち書いてっていわれたら一つしかないものですから。そりゃそうなりますわね。おやじはギャンブラーで借金王・母親は宗教依存症で浮気を繰り返す・貧困。影響を受けた両親がそんな感じでした。どこにでもある話、なのかもしれませんが私にとっては大問題で深刻で悲しくて寂しいことでした。

                                      特に母は毒親でした。けれどそんなことどうでも良いと、今は思います。なぜって?わたくしも、50歳にして不惑どころか迷いに迷っておりました。よって、わたくしの母が同じように迷い、すがった先が新興宗教だった、というだけのことなんですよね。どこにすがるか、何で自分をどう立て直すか?の違いだけだと思うのです。宗教依存症に留まる母は、それが母なのですから其れで善し。なのです。母が入信したのは多分49年前でした。母は29歳だったはずです。およそ50年前。通信手段は黒電話と電報。テレビは白黒からカラーが普及したばかり。洗濯機は二層式。そんな時代でしたから。お友達のお母さんに勧められて入信したことを覚えています。母の実家は「お稲荷さん(稲荷神)」の熱心な信者でしたので信仰心は篤かったのでしょう。すんなり入信していたようです。

宗教依存症なんていうのがあることすら知らなかったわたくしですが、知れば知るほど腑に落ちました。

このワインには神様が入っているから飲みなさい、と私の幼い娘に無理やり飲ませようとしたこともありました。頭にきて全部私が飲みました。

まだ小さかった私に、「お父さんには神様の光が届いていないんだって、だからもうすぐ死ぬらしいよ♪」と薄ら笑いを浮かべながら話す母。それから私は父が死んじゃうんじゃないかと思い不安で胸が押しつぶされそうでした。そんなことを言う神様なんて大嫌いでした。

脳梗塞で就寝中に意識不明になった父。隣で寝ていて気づいた母は直後から4時間も神に祈っていたそうです。脳梗塞は時間が早ければ回復の見込みが数段に上がります。「知らなかった・・」とはいえ。4時間も救急車も呼ばずにいたことの本意は母のみぞ知る。無知ですみません、と医師に頭を下げていました。わたくしは問いただしませんでした。病床でも、母は父に「大丈夫だからね、なんにも怖くないから。神様が待っているから」と言います。意識のある父に対して。薄情だと言われるかもしれないけど楽になって欲しいと思ったのだそうです。

家族も、全員がその信仰を嫌っています。母の言葉も誰ひとり聞き入れることはできないし、だいたい人としての現実味がないから母に相談しようなどとハナから考えない。むしろ、深いことなど話さない。それでも「自分は世界の平和を祈り家族の幸せを祈っているから大丈夫。こんな幸せなことは無い」とご満悦。そうなのね、ならよかったね。

私は、自分の知り合いに、親が宗教依存症で困っている、という人と出会ったことがありません。

父は存在感のない人でした。私が幼い頃は尖がっていましたが、母が別居を切り出し一人ぼっちになったとたんショボンとなりしばらくして孫が生まれたりしてどんどん丸くなりました。丸くなったというよりは、薄くなった。高校生くらいまではしょっちゅう殴られていましたが私も逆らう娘だったので父に対する感情は「攻撃」でしたね。

別居は半年。父は一人暮らしにオロオロし、母は自分の働きで子供二人を養うことにギブアップしたのです。寄りを戻して狭いボロアパートで4人で暮らす羽目になったときは幼心に「別れればいいのに」と思ったものです。相変わらず、毎日怒鳴り声を張り上げての喧嘩の再開。夜になればギューギューに敷き詰めた隣の布団でSEXする音・声が聞こえてくる。耳をふさぎ目をギュっと閉じ、トイレにも行けず。終わるのをじっと耐える。

そのころは「虐待」なんて言葉もありませんでしたので。誰にも相談できず苦しい毎日でした。子供なりに、これは言っちゃいけないな・・と察する。親の顔色を見ながら暮らす。母はきれいにお化粧をしてパートに出かけますが父が帰ってこないのをいいことに、夜は私たちを連れて彼氏とドライブに出かける。妹は車で寝てしまい、私は暗い中、公園で遊んでいたことを覚えています。パートが変わるたびに彼が変わる。ピアノの先生とも良い仲になる。独身の先生の自宅の教室で私がレッスン受けていると夕飯の支度を始める母。記憶にある子供時代はいつもいつも夕闇の中。景色がない思い出ばかり。

そんな私も大人になり結婚し母となるわけですが。

本当に何にもわかっていない大人なわたくしが出来上がっていたわけです。お金の使い方も知らない・ディスりといじりの違いも判らない・ちょっとなにか言われると否定されたように感じてしまい怒りがわく体質・承認欲求が強い・誰かと自分をいつも比べて上下を勝手に設定する・嘘つき・SEX依存・酒におぼれる・思っていることを一言も言えない・現実を見ようとせず妄想ばかりする・常に怒りがある・コントロール癖・見栄っ張り・ズル賢い・・  もう、ありとあらゆる駄目の結集人間でした。

いくつになっても一つもうまくいかなくて・・(この場合のうまくいかないっていうのは「自分の思う通りにならない」って言うことなんですが。)頑張り屋ではあったのでいろいろなことに手を出して忙しくしていました。けれど、すでに何かがおかしいんです。アンバランスだし。いつもグチャグチャな気持ちでいっぱいでした。自分を大事にしなさいなんて言われても正直どうしたらよいのかわからなかったです。甘やかせばいいのか?甘やかすって?家事やらないとかそういうこと?でもそれはイライラしちゃうな。解決策無し。

こんなことを50歳になるまでやっていたんですね。もったいなかったな。

母が宗教依存症でなかったら私は幸せだったのでしょうか??       答えはNO‼です。

わたくしは、わたくしの人生を生きればよかったのです。           それまでのわたくしは、悲惨だったと認識している自分の生い立ちを誰かに聞いてもらいたかっただけ。どうするつもりもなく、話したかっただけ。  「どうしたい」なんて解決に向かう考えは一切ありませんでした。      あまりの苦しさにもがき、やっと自身で気づいたあの日。あたたかい感情が胸にあふれたこと、忘れられません。

この2年で。リボーン!まだまだ課題はありますが世界は優しい。と思うのです。次はこの2年間についてを、書いてみたいと思っています。 不一











街のお母さん食堂を作りたい!シングルマザー専用のアパートを運営したい!障がい者雇用を産み出したい!人生100年!社会とのコミュニケーションがないと人生つまらない!夢は壮大です。生きづらい世の中ではあるけれどもまだまだ捨てたもんじゃない!小さくても1歩目がなくちゃ未来は始まらない!