意識のスケール


デヴィッド・R・ホーキンズ の 意識のスケール 
ずっと絶版だったけど新刊がでたようです
→  パワーか、フォースか 改訂版

* この画像はたしか“  I<わたし>” にあったもの

単純に解釈してみると

200より下 ネガティブ(否定的)
200より上 ポジティブ(前向きさ)
500以下 二元的な世界観
500より 非二元的な視点・観照者

600より 分離のなさ・観照

200より下のそれらには「深刻さ(重々しさ)」がある。200より上にもまだまだ深刻さがあるけれど、200以下ほどではない。 深刻さが強いほどに、ムキになったり、考えすぎたり、言い過ぎたり、やり過ぎたり、こだわり(執着)がある。そういう深刻さが500あたりから和らいで、600を超えると0になる。
   
500 マインドレベルの目覚め
540 ハートレベルの目覚め
600 ハラレベルの目覚め

たとえば、このモヤモヤしたかんじは、マインドなのかハートなのかハラなのか?というふうに観てみても面白い。よく起こりがちなのが、ハートやハラレベルで感じることを回避するためにマインドが忙しなく動いたりする。考えることで「かんじる」ことをブロックする戦法。それが500あたりから軽減されてくる。

500を超えてくると、マインドからハートへの明け渡しが起きてきて、考えるよりもかんじることによる問題解決へと動き出す。540を超えると「かんじる」ことへの抵抗感が無くなってくる。540以下では、かんじることへの抵抗感・ブロックがあるので、考えることで解決しようとしがち。

500から非二元的な視点・観照者的な見方が始まりつつも、まだ二元的な世界観が残っているため、それゆえの深刻さがあって、600(分離のなさ・観照)においては、深刻であれる者のなさ、守るべきもの・防御しなくちゃならないものがなにもない。600以下は観照(者)であり、600以上より観照である。

よく「 地雷を踏んで怒らせた 」と表現される“地雷”というものは、大きめのカルマ(影響力の大きいカルマ)のことで、波長・意識レベルを下げている「重し」のような働きをしてる。 そういう地雷のほとんどが、一体化しているパターンとしてアイデンティティ化、“自分そのもの”になっている。

そういう思考感情パターンが200以下に示されている。

プライド(軽蔑)
怒り(憎しみ)
欲望(渇望)
恐れ(不安)
悲観(後悔)
無気力(失意)
罪悪感(咎める)
恥(屈服)

“ 自分 ”というものに酔っ払って“ 自分 ”という中で我を忘れてしまう。

たとえば、
地雷となる出来事
地雷となる人物・キャラクター
地雷となるシチュエーション

そういう「 トリガー 」を目の当たりにすると、おもわず言ってしまう、やってしまう、反応してしまうこと 。 反射的、衝動的なパターンや完全に無意識のまま再生しつづけているパターンは、酔っ払って記憶や意識をなくしたり、あとで後悔するような言動をしてしまうのと似ている。

我を忘れてしまう というのは、
・ 気づきであることを見失ってしまうこと
・ 思考や感情との一体化による深刻さ 

そういう“地雷”を丁寧に観ていって一体化するのをやめていくと、かなりラク=軽くなるし、メンタル・精神だけでなく肉体的な症状、人間関係にも波及していることも多いので、いろいろな変化も実感しやすい。

そういう“ 地雷 ”への対処方法としては、たとえば衝動的にパッとそれを言動で表すかわりに、瞑想や呼吸法、内観、ホ・オポノポノのフレーズ(ありがとうごめんなさい許してください愛しています)を唱えてみる等々、、、

念仏を唱えるというのも、そういうことなのだとおもう。おなじ動きを繰り返すとトランス状態になって「からっぽ」になるし、意識をいつものこっちからそっちへズラすようなかんじ。ジョギングなどもそう。ほんとにいろいろなクリーニング方法があるので、自分に合っているもの・縁のあるものを選んでいくのだとおもう。

意識のスケール についての理解と自己観察を進めていくと、

「 だいたいこの感じがこれぐらいのレベルで、
この感じがこうなるとこれぐらいのレベルだな。」

みたいなのが、なんとなくわかる。

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