見出し画像

目覚めの副産物

隙がない!とはこのことだな、アジャシャンティあなの世界の終わり。

毎回読むために、そうおもう。

bot化してますが、さらに追記メモ。

目覚めに“ともなって”至福があるかもしれませんが、でもそれは目覚めそのものではないのです。なぜなら、それは実際、目覚めの副産物であるからです。私たちが目覚めの副産物を追いかけているかぎり、現実(リアリティ)のものを見逃すことになるでしょう。これが問題です。なぜなら、多くのスピリチュアルな修行は、目覚めそのものを生じさせることなく、目覚めの副産物を再生産しようと試みているからです。私たちはある種の、たとえばマントラを詠唱するとか、バジャン(神への祈り)を歌うとかの瞑想テクニックを学びます。すると、ある種のスピリチュアルな修行、テクニックに参加することで、至福状態、一つであること(ワンネス)など、実に多くの目覚めの副産物を生み出すことができます。しかし、多くの場合に起こることは、目覚めそれ自体がないのに、ただ目覚めの副産物を得るという結果“だけ”で終わることです。

目覚めるとは何でないのか、知ることが重要です。
そうすれば、私たちは目覚めの副産物をもう追い求めなくなります。

(中略)

私は神秘体験には価値がないとか、それらが人を変えることはない、と言っているのではありません。それらはしばしば人を変えます。神秘体験はエゴ的自己の構造を根本的に変えることができ、しかも非常にポジティブなやり方で変えることが多いのです。ですから、相対的世界の物事の中で、神秘体験は価値があります。しかし、私たちがスピリチュアルな目覚めについて話題にするときは、個人的経験について話しているのではありません。私たちは「自分」“からの”目覚めについて、話し合っているのです。

アジャシャンティ “ あなたの世界の終わり ”P26~29

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?