【映画感想】シンエヴァ②【ここはあの娘の弔い場】

※Twitterで公開していたものの再掲です。

 なんで、これをテレビ版最終話でやれなかったんですかね? って話だけれど、要するにこの話が典型だからなんですよ。物語の要素を見つめていけば、そういうラストになる、あるべき形。
 それが嫌で旧シリーズを描いたんだと思うんですが、もう他の作品でも肯定してもらえたし、王道の結末でもいっか!受け入れてくれるよね!ってなったんだろう。これだけ息の長いコンテンツです。キャラクタにしろ、アニメーションにしろ、言い回しにしろ、演出にしろ、人それぞれに思うところはあるけれど、愛されていることは確かです。
 エヴァは父と子の摩擦から始まった物語です。
 その対決、対話で締める。
 いいじゃないですか。
 ここに来て監督が物語を「典型」に落とし込むことになったって…。それが王道だもの。
 でも、納得行かないのが「碇ユイ」の描かれ方。
 これが惣流愛にも通じてくるところですが…。

 式波の背景がラストに描かれたことによって、明らかに「惣流」とは別な存在としてあることが確定しました。
 式波も、綾波も、人工的に生み出されたパイロット、クローンであった、と。
 特に、式波に関しては大量生産の果てに実験やら何やらでだんだんと数を減らしていく中で……っていう過酷な背景が。本物の父がいて、母がいて、エヴァに乗れるシンジを涙を堪えて見つめる式波ちゃんが泣ける。だけど、彼女には救いが示されているので、まぁいい。
 惣流・アスカ・ラングレーに想いを馳せよう。
 エヴァシリーズには母親の魂、初号機にはシンジの母親ユイの、弐号機にはアスカの母親の魂が入っており、ゆえに旧劇の激しい戦闘シーンの中、惣流は「ママ、ここにいたのね!」と母の魂に触れることができました。弐号機がアスカ専用なのはこの代替不可能な親子関係による魂の繋がりがゆえで、レイが初号機に乗れるのはユイのクローンだから、と設定で理解しています。
 惣流はデザインチルドレンであり、優秀な研究者であった母と、精子バンクから得た優秀な遺伝子の掛け合わせであり、そのことを誇りに思っている。弐号機に乗るためだけに生まれた子ども。だから、私は選ばれた人間なのだ、と。
 しかし実際は弐号機に魂を抜かれ、その実験の結果、おかしくなった母親にネグレクトを受けている。幼い彼女はただただ自分を見て欲しいがゆえに訓練も勉強も頑張っている。優秀だから、選ばれた人間だから、というのは建前で、そんなふうに母親が恋しい自分を自覚しつつも受け入れられないでいます。だから父親とうまくいっていないシンジに当たりがきつい。二人は似ているから。
 加地に恋するのも、同級生なんてみんなガキ!という大人ぶった行動というのもありますが、加地自身が吐露していたように「父親」を求めていたのだと思います。しかし、まぁ、旧劇ではそれは果たされませんでした(この辺の話はまたあとでミサトと一緒にまとめます)。
 式波の背景は、惣流とはまるで異なります。実の両親を知らない。エヴァに乗るためだけに生み出された存在。だから、エヴァに乗ることが存在証明になる。けれど、内実は誰かに褒めて欲しかった。惣流の、外側の部分に、核となる孤独があるキャラクタ。
 ここまでの改変を初めから予定していたとして、そりゃあ名前を変えるわな、と思いました。
 惣流のアスカは一番でないといけません。二番では見てもらえないからです。私が一番にならないなら、おまえはいらないと、だからシンジを拒絶したんだと思います。
 しかし、式波のアスカは別に「二番」でもいいのです。あなたはあなたなのだと肯定してくれる存在が欲しかったのだから。まさに「ナンバーワンじゃなくてもいい、オンリーワンの君」です。ナンバーワンに拘る、その背景を嫌というほどに見せつけられている惣流のアスカにこの改変はひどいこととなったでしょう。ある意味、名前を変えて別人としたことが、庵野監督の良心だったのかもしれません。
 さようなら、私の永遠の少女。
 気高いあなたが好きでした…。

 で、ユイの話に戻ります。

 旧劇の碇ユイはそもそも人類補完計画の関係者であり、その加担者であります。自身の死を含めたその計画も、その達成後には「家族で一緒になれるから」くらいの思いで臨んだのかも知れません。
 エヴァというマシンを、私は母親の呪縛と見ていました。
 それは惣流と母親との描かれ方ももちろんですが、シンジの母ユイが、滅びゆく人類、その中にいる息子のために「こうすれば未来は明るい」として打ち出した押しつけがましい計画、それを「愛」とするところに、です。
 ゲンドウの、ユイにもう一度会いたいというのは、補完計画のおまけのようなもので、彼にとってはその「おまけ」が本懐になってしまったのが、元々のシナリオとのズレでしょう。
 ともあれ、碇ユイ。
 こいつも相当アレな母、というか、やべぇ女です。
 それを、なんだろう、あの新劇のラストは。
 まるでシンジを生かすために、エヴァに居たと言わんばかりに。
 いや、本懐はそうなんだろうけど。だからこその補完計画だったわけで、その計画を反故するような世界を、息子が選んだことが問題で。
 新劇の改変要素を見ていくと、うっすらと取り巻いていた「母親の呪縛」が、「父親との対決」に集約されており、とどのつまり、どこにでもある、ごく普通な、少年誌的な、「父と子の物語」になってしまったんですよねぇ、はぁ、あっ、そういうこと???
 アスカを式波にし、その母親からの呪縛から解き放つときに、すでに物語の軸として、それは決められていたことなのかも知れません。律子の、母親とマギとの話が削られたのも、それが要因じゃないかな…。

 偉大なるクリエーターは、少年を成長させ、彼の中の少女を殺す。

 …みたいな言葉がふとよぎったんですが、これと同じ構造を岩井俊二の「ラスト・レター」にも思ったので、どっかで関連して綴るかもしれません。

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