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【観劇】THE BEE【新しい地獄】

 東京公演がことごとく外れ、ヤケクソで大阪公演を申し込んだら、土日の激戦枠で見事に当選! 初遠征観劇でした。
 席は端でしたが、前の方だったので、役者さんの表情や汗までばっちり。「どえれえもんを、見とる」と震えながら観劇しました。特に、あの、小古呂の妻が、井戸に銃を突きつけるシーンは、思わず胸を押さえてしまいました…。


 『THE BEE』はちょうど私が野田劇にハマり始めた頃に、WOWOW放送で見たことがありました。2012年版「宮沢りえ×池田成志×近藤良平×野田秀樹」。英語版も見た記憶がうっすらとあるので、ネットか再放送かでそちらも見たのだと思います。野田さんの女性役は妖艶だなぁと思った記憶がある。
 2012年版は録画を持っているので、それこそ何度も繰り返し見続けてきた演目でした。そのたびに心を打ち震えさせ、初回の感想で「こんなものを生で見たら、死んでしまう」から「いつかこれを生で見ないと、絶対に後悔する」とまで思うようになりました。だから、今回、チケットが当たって、本当によかった! 神さま、ありがとー!!
 そして、2021年版「阿部サダヲ×長澤まさみ×河内大和×川平慈英」。野田秀樹が演者から解放され、演出に徹した本作。新しい解釈が見られるのか。過去の焼き直しになっていないか。
 一回性芸術である舞台を、録画という形で繰り返し観てきたが故に不安でしたが、まったくの杞憂でした。


 2012年版を何度も見返している、と言いつつ、今回の演出を見ながら、「えっ! こんなだっけ!?」となり、混乱に陥りました。落ち着いた頃にまた録画を見直してみようと思いますが、「えっ!? こんなだっけ!?」
 大きく違っていた、と感じたのは、井戸と小古呂の息子の交流。これはもう意図的に、あえて、こうしたのだと思います。
 脚本だけ読めば、確かにここに厚みがあってもいいのかなぁとは、実は思っていました。が、それ以前の公演には野田自身が演者として出ていたこと、しかも彼は(日本語版と英語版の違いはあれど)井戸と小古呂の妻という、言わば本作の「主人公とヒロイン」を演じていたわけです。その意味でも、ここに焦点を置いた演出になるのは仕方がない。
 まして、比較対象は日本と英国。英国版では、主人公の男を女優が、ヒロインの女を男優(兼演出家)が、しかも西欧圏の、アジア圏の、という多重の意味合いを持たせる配役を侍しての公演でした。
 今回はむしろ日本だけの公演だったので、過去作との比較という意味で、シンプルに脚本の演出を練り直せたのではないでしょうか。セリフも小道具の演出もほとんど変えず、これほどまでに鮮烈に本作の印象を一新されるとは思いませんでした。その新しさは、ただの一点。井戸と息子との関係にあります。
 パンフレットを読むと、初演時に野田秀樹には子供がなく、だからこそあそこまで非情なことができたのだろう、とのこと。なるほど。英国版ではあの場面で退場するお客さんも多かったらしく、中には失神した方もあったとか何とか。
 今回の演出は、「子どもを得た野田秀樹」によるもの。井戸と小古呂の息子との関係が、彼と実子との関係をダブらせる形で、確かに存在していました。
 脚本のままに解釈するのならば、ラストの方で、井戸が小古呂の妻と自身の妻を混同していく、その狂気が描かれていますが、妻でそれならば、生活を共にしている息子にも同じことが起こり得るわけです。
 しかも、(おそらく、本を書いていたとき、作家自身が意識していなかったのかもしれないが)小古呂とその息子は、一人二役の役者が演ずる──自然と、この親子は似るわけです。
 現に、私は今回の、小古呂とその息子を演じる川平慈英に類似点を見ました。同じ役者がやっているので当然ではありますが、おそらくこれは意図的に演出されたものではないでしょうか。
 2012年版になかった息子の掘り下げが、小古呂自身の背景に返る──7歳の誕生日を迎えてなお、彼は指しゃぶりをやめられない。母の庇護を求め、宙を彷徨う片手。時に、井田と戯れるその姿は、7歳にしては幼過ぎる。10を数える言葉も辿々しく、電卓など与えても使いこなせそうにない。
 井戸の息子の話はまったく出てきませんが、井戸と小古呂が「同じ犯罪者」と言いながらまるで異なる生育環境であることがわかるように、息子たちもまたその性格も成長度合いも異なることでしょう。そうやって「語られない井戸の息子」をも、井戸を通して見ることができる。
 初めて小古呂の息子の指を切るとき、彼に名前を問います。恐怖で答えられない息子の代わりに、母親がその名前を告げる。この役、元々名付けられてはいるんですよね。そうなるともう「人格」が与えられた存在となる。しかし、井戸は家族を取り戻すために、理路整然と小古呂の息子に指を切らなければならない理由を説きます。そんなの、当然、彼らが理解できるわけもなく、だんだんその狂気に巻き込まれていく。
 翌朝、自分の息子の指が贈られてきたとき、井戸は小古呂の息子を抱き締めます。自分の息子を慰めるかのごとくに。しかし、その手で彼の指をまた切り落とす。繰り返される狂気はルーティン化し、やがて子どもは自らその指を差し出すようになる。2012年版よりもドラマチックに、この過程は描かれていたように思います。


 観音の開きの三面鏡。この小道具も、こんな演出だったっけ!?と、また新鮮な気持ちにさせられました。2012年版を見返すほかないわけですが、勢いのまま書いているので、未確認です。
 小古呂の妻が銃を手にして、井戸に突きつけるあのシーン。パンフレットでは「恐怖に支配されていて、それが拭い去れない」とさくっと説明されていましたが、私の印象としては井戸に妻が共感したせいかと考えていました。もちろん恐怖もあるのでしょうが、脅されている中でも家族のようにして毎日を過ごす中で、井戸が小古呂の妻に自分の妻を見たように、小古呂の妻もまた井戸に自分の旦那を見たのではないでしょうか。
 2012年版では、三面鏡の演出はなかったように思います。私はずっと洗面台で身支度を整えていると見ていたので、あの家に不釣り合いな立派な観音開きの三面鏡。あの光の開き方で、井戸の狂気の顔が、銃を突きつけている妻の姿が、互いの目に入る──だから、彼女は撃てなかった。よりわかりやすく、そして心が苦しくなるような演出でした。


 後半、舞台のメインを張る三人が三人ともコメディ耐性のある役者だったことも、今回新鮮に写った要因かもしれません。
 2012年版はあの宮沢りえが場末のストリッパー役をやり、下着姿で舞台を右往左往する衝撃というものがあったのですが、長澤まさみもまたその姿が衝撃ではあったが、それよりも罵倒姿が板についていたり、コミカルな演技もハマる役者なのですよね。
 野田劇は「前半に笑えていた演出が、後半になると笑えなくなる」ことが多いですけども、それが後半の下がってくるところを過ぎてもなお、消えない。「え、そこで?」ってとこで、観客の中から笑い声が聞こえ、このテンションのチグハグさもまた気持ち悪かった。
 隣に座っていたお姉さまは、おそらく阿部サダヲファンなのでしょうが、狂気の踊りでもノリノリな彼を見て、あの剣の舞にリズムまで取って、ニコニコとその様子を見ていて、ひえっ…と思いました。息子の指、折った後ですが?
 終盤にかけてはもうそんな笑いもなごやかさもなく、ただただ最悪へと転がり落ちていくわけですが。

 東京公演も、当日券を並んでおけばよかった!
 大阪公演はまだ間に合うので、お近くの方は是非!!

 長澤まさみが「2012年版「THE BEE」が上演されたときに「絶対に観たほうがいいよ!」と言われたのに、見逃してしまって大変後悔している、のちに自分がやることになるとも思わず…」って、コメントしてておもしろくて好き。

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