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おばあちゃんのおひざもと

この本を大好きなおばあちゃんの霊魂に捧げます

まえがき


おばあちゃんの両親は、明治時代に三重県の志摩町片田村という所に生まれました。

私も、おばあちゃんに連れられて小学生の頃に一度、そして40代になってから再び訪ねたことがあります。独特の家並みが立ち並ぶ小さな漁村で、伊勢神宮のお膝元です。伊勢神宮の年中行事には昔から鰹や鯛などの漁獲物を献上してきたと聞きます。

この本を執筆するに当たり、おばあちゃんの両親、つまり私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの育った片田村について調べてみると、とても興味深い歴史的事実を発見しました。

伊東里き(イトウリキ)という女性


江戸時代の慶応元年(1865年)に、片田村に、伊東里きという女の子が誕生しました。令和の時代を生きる今からしたら、150年以上も遡るはるか昔の時代のことです。

明治維新すら始まっていない、外国との交流がほぼゼロに近かった時代に、里きは小さな田舎の漁村に、医者の娘として生まれました。幼い頃から書物が好きで何事にも積極的な利発な子供だったそうです。

彼女にはお兄さんがいて、兄は医師になるため東京の大学に通っていました。親に頼まれたのでしょうか、里きは20才になると、兄の炊事、身の回りの世話のために妹と共に上京。兄妹3人で東京での生活を始めました。

ある日、横浜の関内に遊びに行った際、アメリカ人の落し物を拾い、それを届けたところ、お礼にと夕食をご馳走されたとか。それがきっかけとなり、彼女は初めてアメリカ人と出会うことになりました。

アメリカ人との接触は里きにとってよほど衝撃的だったようです。

彼女はその後間髪入れずに、地元片田村の友人に「リキ キトク スグコイ」というウソの電報を打ち、自分の替えを東京に呼び寄せると、その女性に兄の世話を任せることとし、自分はさっさと興味津々のアメリカ人と更に近づけるようにと、横浜在住のアメリカ人家庭でのメイドの仕事を見つけてきました。
鉄砲玉のような行動力!

最初にメイドとして仕えたアメリカ人家庭はレンガの製造技術者、エンジニアのお宅。そして次に縁ができたのがなんと、アメリカ海軍大尉のファミリーでした。

里きは東京にいる間に、地元出身の男性と出会い、22歳の時に一度結婚するも、性格の不一致から離婚を決意。しかし旦那が失踪してしまったため正式な離婚手続きには及ばなかったそう。

それから更に数年を経た1889年(明治22年)、里き24歳の時、人生の大転機が起きます。仕えていた海軍大尉がアメリカへ帰国することになったのです。その時に大尉は里きに、一緒にアメリカへ来ないかと誘ったというのです。よっぽど彼女の性格や人となり、仕事ぶりが気に入られたに違いありません。アメリカ軍の最上級の位にある大尉ほどの人物が、そう軽率な考えで口にする内容でははないと思うのです。そんな大胆な誘いをしてみようと思わせるほどの、人間的魅力が彼女にはあったのでしょう。

行動力に溢れる若い里きは、二つ返事で快諾。
誘われるままアメリカへ渡る決心をしました。

つい30年ほど前まで鎖国政策を敷いていた日本では、この時はまだ西洋の文明との接触はほぼなかった時代。ほとんどの人は地元を離れることすらなかった、そのような時代にあって、宇宙に行くかのような冒険になんの躊躇もなく飛び込んだ里きには恐れ入る。

若き伊東里きは、文字通り、言葉も生活様式も全てにおいて未知の世界へ飛び込んだ。アメリカへの渡航にかかるスポンサーがアメリカ軍大尉だったことが、恐らくあの時代においての一般の日本人の渡米を支障なく遂行させた大きな一因だと思われます。

果たして、里きはサンフランシスコ行きの蒸気船、”The S City of Rio de Janeiro”  「シティ・オブ・リオデジャネイロ号」に、右も左を分からぬ異国へ向かうべく大尉に連れられるまま乗船。

アメリカへ渡ると、里きは程なくアメリカ人男性と結婚し、26歳のときに長女モコを出産。その夫は後に亡くなり、一瞬シングルマザーとなるが、翌年にはアメリカで農場経営をしていた日本人男性と共同生活を始めている。

渡米から5年後、29歳でアメリカでなかなかの富を築いた里きは、娘モコを連れて片田に帰国しました。

「ただいまー」

地元片田に戻った里きは、村を出た当時の彼女とは全くの別人でした。

すっかり垢抜けし、凜とした身なり、洋装がすっかり板につき、会話の隅々には英語が混じっている。あまりにも見違えて帰ってきた里きに、村中がぶったまげた。彼女の変容ぶり、また彼女の話すアメリカでの生活は人々の間でまたたく間に評判となり、村の外まですぐに広まっていきました。

里きは片田の住人たちを前に、

「アメリカってとこはね、何もかもがこことは違う。」と

衣食住から、人力や動物を使わずに機械で動く乗り物、生活様式など、様々な体験を細かく話しましたが、とりわけ、村人の関心を強く引いたのが、労働賃金の話でした。

「アメリカではちゃんと真面目に働けば、日本とは比べものにならない給料がもらえる。月々の生活費を使っても十分余るから、貯金がたくさんできる。」という彼女の実体験に多くの村人が触発されました。

里きの影響力は大きかった。
変わりばえしない、田舎暮らしの村民達の目には、彼女はさぞ眩しかったんだと思う。

「あの里きが、何も知らず何も持たずに行ったアメリカってとこで、たった5年でこんなに様変わりして帰ってきた。しかも信じられないほどの経済力を得たようだ。これが可能なアメリカとは一体どんなところか、僕も、私も自分の見て見たい」

と、片田村からアメリカ行きを希望する者が現れました。

そして里きが再びサンフランシスコへ帰る際、片田村から七人の村人が彼女と一緒にアメリカへ行くことを希望し、彼女と共に太平洋を渡りました。
内訳は男性3人、女性4人。
里きはこの7名の全員の渡航費を全て負担したそうです。

その頃の日本の一人当たりの国民所得は37円であった(参照:明治・大正・昭和・平成・令和 値段史)という。乗船費、旅費は数百円したそうであるから、相当の肩代わりである。それができたのも、彼女は米ドルを持っていたことも有利に働いたと思われる。

この7名はサンフランシスコに到着すると、男性陣と女性陣に分かれ、男性三人はサンフランシスコに残り、女性四人はサンタバーバラへ移ったという。サンタバーバラには農業を営む日本人がいたため、彼女達はそのつてを頼りに行ったようです。

この七人の移住者は一生懸命働き、得た収入をそれぞれ片田に送金し始めました。

その額は平均して一人年間300円にもなったそうです。
今の金額に換算したら数千万。

片田村はアメリカ村


アメリカから定期的に送られてくる信じられない額の受け取る片田の住民たちは、里きだけに起きた特別なことだけではないことが分かり、次々に里きを頼ってアメリカへ移住する人が急増していきました。

その結果、片田村は周辺の地域から「アメリカ村」と呼ばれるようになります。

片田村からアメリカへ移民した人たちが、仕送りとして片田郵便局に送金した額は、明治時代末期から大正初期にかけて、当時の片田村予算の三倍に達したと言われています。

明治時代に海外へ行った日本人はほんの一握り。

しかもその一握りのほとんどは、華族、三井家などの豪商、政府高官、国費留学生など国費による使節団や官費留学生、また三井家などの豪商のみでした。

そんな時代にあっての、この片田からのアメリカ移民の動きは、全く潮流が異なり、他では見られない片田特異な現象であったと言えるでしょう。

鎖国が解けて間もない、エリートとは縁もゆかりもない片田舎から、突如として彗星のごとく現れた若き冒険心に溢れた伊東里き。

彼女が偶然、横浜関内でアメリカ人と出会い、アメリカ人に興味を持ち、アメリカ人宅での仕事を見つけ出し、その結果、実際にアメリカ人に連れられてアメリカの地を踏んだ。

その後故郷に戻り、見違える輝きを放つに風貌に変容した我が身を見せ、自分を変革させた体験を、地元民に話した。

その話に魅了された村人数人が里きを頼って一緒にアメリカへ行くことを決心し、移住した。

その後、実際に日本ではあり得ない額の金額がアメリカから仕送りされてくると、残された家族、また村の人々は、「ならば私も」とアメリカへ渡って行った。

これが明治時代に三重県の片田村からアメリカ移民がスタートした背景のようです。

ところで、最初に里きに付いてサンフランシスコへ渡った七人のうち、半分以上は女性であったところに、私は女性の闊達な気概を感じます。

この7名はサンフランシスコに到着すると、男性陣と女性陣に分かれ、男性三人はサンフランシスコに残り、女性四人はサンタバーバラへ移ったといいます。

私のおばあちゃんはサンタバーバラ生まれ。

なるほど、これで辻褄が合う。

そうだったのか。

おばあちゃんのお父さん、お母さんは、私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんは、この伊東里き、というカリスマ的な女性の影響を受けてアメリカへ渡ったんだ。

勇気があったなあ。

おばあちゃんは、こんな歴史の糸が’繋がってサンタバーバラに生まれたんだ。

時代のロマン、精力的なバイタリティー、夢、希望、ひたむきさ、連帯感、、、

今を生きる私にも、そういった精神の一部が脈々と引き継がれているのかと思うととても感慨深いです。

この本は、子供の頃からおばあちゃんに話してもらった様々な体験をまとめたものです。

おばあちゃん、聞かせてもらったお話は、忘れていないよ。

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