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向こう側にいる人たち

僕が毎週愛聴しているPodcastに 『いんよう!』という番組があります。
生物科学研究者の「よう先輩」と病理医の「いっちー」がおじさんトークを繰り広げる番組です。
最近は サンキュータツオさんが準レギュラーとして月イチくらいのペースで出演されています。

内容は、科学、医療、哲学、言語、書籍、アニメ等々本当に多岐にわたっていて聴き応えがありすぎるほどあります。
おふたりの専門分野の論文を噛み砕いて解説する回がたまにあり、僕はこの『論文回』が結構楽しみでもあります。

2020年12月15日配信の最新回 第122回 は、よう先輩の発案でさらに踏み込んだ企画となり『近しい研究者に話すときと、分野の違う専門家に説明するときと、一般向け』の説明を比較したものでした。

やや “変態” の素養がある(褒め言葉)ヘビーリスナーたちは近しい研究者同士用の説明に『全然わからない〜💕』『日本語とは思えない👍』『単語がいくつかわかった✌️』『置いてきぼり感がたまらない😍』と狂喜乱舞しているのが印象的です。

僕も御多分に洩れず清々しいほどの解らなさに専門家の “凄み” を感じることができ、ものすごく楽しい回でした。

その一方で “この変態的な楽しさ” は「いんよう!」ファンであるからこそ成立するのかもしれないということを考えるきっかけになりました。

だいぶ認知されてきたとはいえPodcastはまだまだメジャーな媒体とは言えません。
そのマイナーな媒体の配信を毎週心待ちにしている “怪しげな” 小集団だからこそ面白さが伝わるのではないか?

「聴きたい人たち」が待ち構えている環境にあり、超難解な内容でも受け入れられることを(言葉は悪いですが) おふたりはちゃんと計算していたのだと僕は勝手に思っています。

「誰が聴いているのか」から逆算して番組の内容を決めていく。
「ここまでなら大丈夫かな?」「もう少しいけるかも」
まんまとしてやられた感が否めません。(狂喜)

どの媒体のどのコンテンツで発信するかによって受け入れ態勢は違います。
SNSもPodcastもシステム上は世界中に向けて発信することは可能ですが、そのツールの向こう側に居るのは良くも悪くも興味を持っている人しかいません。
さらに内容的には興味を持っていても言語が理解できなければ対象にはなりません。

この駄文にしてもそうです。
#いんよう のハッシュタグで投稿したツイートのリンクから飛んできた方のうち、長い文字列に拒否反応が無い方しか読まないでしょう。
それとnoteという特殊なツールで文章を読むことに抵抗のない方が、たまたま目を通すこともあるかもしれない程度です。

noteにはこれまでも駄文を書いてきましたが、正直なところこの「誰が見ているのか」についての意識は希薄であったと言わざるを得ません。
伝えたいことがあるのにこの部分の重要性を認識していなかったと言うのは致命的だったなと反省しきりです。
もっともどう改善していくのかについては、これから考えるという状態ですが。

僕は大切なことに気がつくのがいつも他人より大幅に遅いので人生もだいぶ遠回りしているような気がしています。
それでも遅いとはいえ大切なことに今回気がつくことができて、ますます「いんよう!」が好きになりました。

もし、聴かれたことのない方がこの文章を読まれていたら、一度聴いてみることをオススメします。
気持ちよくトリップできたら、貴方も「いんよう!」にどハマりするかもしれません。

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写真は「いんよう!」のおふたりの母校 北海道大学の平成ポプラ並木。
2017年6月9日撮影。

まぁ僕も母校になっていたかもしれないんですが、その当時は別の選択をしたのが懐かしく思い出されます。
今年は無理でしたが、しばしば北海道を訪れるのにはそんな理由もあったりなかったり。。。