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「何も知らない」5


僕達は連絡先を交換し、アオイさんから連絡が入った時だけ、あのマンションで会った。
大体決まって週末の夜、部屋で一緒にご飯を食べ、夜は一緒に眠った。
こんなに穏やかな気持ちは初めてで。僕はこの時間の時だけ、生きてることが気持ちいいと思えた。

アオイさんと一緒に眠るベッドのシーツも、
目覚めてすぐに浴びる熱いシャワーも、
部屋に戻り、まだ寝ぼけ眼なアオイさんを抱きしめる時の感触も。
どれもが甘い記憶となって、僕の脳裏を占領する。

この頃になると、ウリ専の仕事が苦痛になっていた。
以前のように、痛み苦しみに溺れる事が出来なくなり、最初から最後まで本当に辛かった。
それでも仕事のペースは落とさず出続けた。アオイさんから連絡が来ない時間を過ごす方が辛かったから。
会っている時間はすごく幸せだったけど、一人の時は死にたいと思っていた以前より、辛く苦しく、常に何かに怯えていた。
以前は何も怖くなかった。ウリ専の客に殺されそうになっても時の流れに身を任せられた。
それなのにどうだ。今の僕といったら、一歩先の未来が怖い。
見失わないように、間違えないように、かけ違わないように、手放さないように。

ある時、アオイさんは独り言のように呟いた。

「トウマくんはいいなぁ…君を縛るものは何も無い、自由…行きたい所に行ける…」

ガキな僕は、アオイさんの言い方にムッとした。
“僕には何も無い、アオイさんとは住む世界が違う”
そんな風に聞こえたんだ。

「…そんなの、本人次第ですよ。環境なんて、関係無いと思います」

アオイさんは穏やかな笑顔で、僕を見つめた。
言い終わると、少し笑って、僕の頬を撫でた。

「ふふ…ほんと、そうだよねぇ。トウマくんの言う通りだよねぇ……君は賢いなぁ、偉いねぇ…ふふっ」

アオイさんはいつもフワフワの綿で、僕のイガイガした棘を包み込んでしまう。
もっと大人になりたい。アオイさんを包んであげられる男になりたい。
今の僕じゃ、アオイさん側に指一本も届かない。

この感情が一体何なのか、僕はとっくに気づいていた。
でも、それを口にすることはしなかった。
なんか陳腐な気がしたし、言ったところでアオイさんを困らせるだけだと思った。
それと、口にして何かが変わってしまうことも、怖かったんだと思う。

アオイさんも、それらしい言葉を口にすることは無かった。
その代わりに、抱きしめてくれる時、僕の耳元で名前を呼ぶ声は、それ以外の何物でもなかった。

これ以上進めない、だけど戻ることなんて到底出来ない、僕達の愛し方だったんじゃないかと思う。

現実から隠れた空白の時間の中、名前の無い関係を続ける僕達は。
あの時の蝶のように見えない未来にしがみついた。

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