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「何も知らない」3


「はぁーあ、もうこんな時間か…終電とかあるよね?そろそろお開きにしましょー!…今日はありがとう、トウマくんのおかげで久しぶりに楽しかったわ」

「…はい、こちらこそ、楽しい時間を有難うございました」

酒は飲んだ、沢山。酔ってはいる。
でも、頭は冷静で。
今日というこの時が終われば、僕達は赤の他人に戻る。
一歩外に出れば、お互い知らないふりをするだろう。
そんな事を考えながらアオイさんの後に続き、長い廊下を一歩ずつ進んでいく。
広い玄関にたどり着き、僕は靴を履くと、もう一度アオイさんの顔を見て、お礼を伝えた。

「アオイさん、本当に今日は有難うございました、仕事抜きで久しぶりに心から楽しいと思える時間でした」

「…もー…そんな嬉しいこと言ってくれてありがとう!
…こんなおばさんで良かったら、また一緒に飲もっ!」

”おばさんなんて…”
自らを貶めてまで一線を引かれてるような気がして。
僕はつい、ムキになってしまった。

「そんな、おばさんなんて…っ!

……アオイさんは……とても美しい女性です」

その一瞬で。
二人を纏う全ての時が止まった。
音が無い空間。この部屋は何も隠せず、あっという間に飲み込まれてしまう。
アオイさんの瞳は、強く静かに、僕をまっすぐ見つめる。
僕はその瞳から目を逸らせず、今この瞬間どうしても、貴女に触れたい。

「…すいません………
………キス、していいですか」

靴を履き、ドア一枚で隔たれたこの空間から少しも動けないまま、言葉が口をついて出た。
湧き上がり、抑えられない感情が、僕を突き動かす。

この美しく明るく凛とした女性の、一人で抱えてきた寂しさを知り…、寂しさを知り、なんだ?
頼ってほしい?ほっとけない?
僕は何様なんだ。違う、そんなことじゃない。
アオイさんが抱える悲しみを、僕に分けて欲しかった。
貴女の悲しみを分けて、僕を利用して欲しい。
その時間だけでも、僕が貴女の中に入れたら。
ずるいけど。
貴女の核に、触れたい。

「…もういいのよ、仕事は終わったんだから」

「違います…これは僕の本心です」

「……電車、無くなるよ」

「…一晩、アオイさんの傍に置いてください」

僕は伸ばした手でアオイさんの薄い肩を抱くと、もうこれ以上は耐えられない思いで口づけた。
人へのこんな衝動、普段の僕からは考えられない。

何でもいい、どうでもいいこの世界で、終わることばかりを願っていた僕は、こんなにも乾き、欲する感情を覚えてしまった。
それはとても甘く、苦しい。
抗うことなど到底無理だと思った。

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