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「その先」26

「…あれ、いたろ? 運転手の」 
 
「…運転って、初めて会った時に一緒にいた? 」 
 
「おぉ、そいつだよ。あれなぁ…飛んだんだよ、あいつ」 
 
「…え?」 
 
運転手の下座くんが、アサクラさんのお金を持って飛んだらしい。発覚したのが私と約束をしていた当日で、ご飯に出られるような状況じゃなかった、と。

いつの日か、アサクラさんは彼のことを「芯のあるいいやつだ」と語っていた。あの様子を見ると、それなりに信頼を寄せていたはずだ。何と声をかければ正しいのか、どのような反応をするのが正しいのか。戸惑うことしかできない私に、アサクラさんは話しを続ける。
 
「結局すぐ見つかったんだけどなぁ、うちの若いやつに」 
 
「え、何してたの?」 
 
「女といたんだよ。二人で逃げようとしたんだろうなぁ。バカだよなぁ」
 
一途な下座くんは、組のお金を持って彼女と二人で逃げようとした。四六時中行動を共にしたアサクラさんを裏切り、組を裏切り。それほどの覚悟で踏み出した新しい人生なのに、すぐに見つかってしまうようなミスを犯した。
 
アサクラさんの言う「バカ」とは、何を指しているのだろうか。この人の言う「バカ」を聞き、泣きそうな気持ちになるのはなぜだろうか。
 
「…で、運転手さんは?」 
 
「まーなぁ、普通じゃあいられねーよなぁ…二人とも。下のやつらに示しがつかねーからなぁ」 
 
普通じゃいられない…二人とも?
二人ともって、可愛い彼女って言ってたあの彼女さんも?普通じゃいられないって、アサクラさんが二人に何を。
押しつぶされそうな重い空気の中、早送りでめぐる残酷なイメージにこめかみが痛む。
途端に恐怖が襲う。若い人同士の喧嘩や、チンピラのそれとは訳が違う。見えないけど圧倒的に感じる存在感。アサクラさんの目が見られない。
発せられる言葉に、その地を這うように唸る低い声に喉元を掴まれ、内側から締め上げ息の根を止められる。
逃げられないような、身を投げ打ってしまいたいような。

「……アサクラさんは、二人に何をしたんですか…?」 

「おぉ? そんなん聞きてぇのか?」

「………」

“聞きたいのか”と問われ、思わずたじろぐ。
私がしたはずの“覚悟”はあまりに小さく、震えていた。
 
「…………はい」

「…ふん。『後悔してみたいです、私』って言ってたもんな、お前」

そうやって、覚えてる。名前だってそうだった。
こんな時に言うなんて、ずるい。

「…ひどいこと、したんですか…」

「…おーそりゃなぁ、当然だからなぁ」

アサクラさんは、ライターを手元でクルクルと回しながらそう言った。“酷いことをした” それはアサクラさんの世界では当たり前のことで、私を前にしても取り繕うことのない事実に、世界が分離していくようだった。

「…俺はそっちの人間だからな、よくあるよ、こんなこたぁ。でもなぁ、いいよな。女と一緒に金持って逃げられるって発想がよぉ。俺はもう無理だなぁ、そんなことちっとも思いつかねーよ」 
 
一人喋り続けるアサクラさんは、至って普通だった。
最近あった極々普通の出来事を話す、穏やかなおじさんに見える。
もし私の耳が聞こえなければ、この人の恐ろしさなんてずっと知らずにいられたかもしれない。
 
「…なぁ」 
 
「…はい」 
 
「……俺と一緒に逃げようって言われたら、お前どうする?」 

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