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【小説】祈り

 ハイビームのヘッドライトに追い詰められるように、道路の右端駐車場のフェンスギリギリに逃げこんだ。
 年の瀬の車は何に追い立てられているのかやたらに乱暴で、もう少し明るい時間であっても轢かれそうになったことは一度や二度ではなかった。
 また、光が向こうから迫ってくる。フェンスに身を寄せたまま、手袋をした両の手をこすり合わせてふと自分の着ている服に目を落とした。
 黒いダウンコート、ダークネイビーのスカートに黒いタイツ。通勤用のバッグも黒。こんなに黒ずくめだと、いつかほんとうに事故に遭うかもしれない。
 せめて家路を急ぐ車から彼女の存在が確認できるようにと、ダウンコートの首元に押し込んで巻いていたアイボリーのマフラーを少し引っ張り出してみた。

 社屋から駐車場までは10分ちょっとだが、いまは寒さよりも安全を優先した方が良さそうだ。動いている方がよりドライバーからもわかりやすいかと腕を大きく振って進む。

  と、背中からフッ、と笑いを堪えたような声が聞こえた。恐る恐る振り返る。

「お疲れ」
 マスクの目が笑っている。営業部のN課長だ。
「お疲れ様です」
 彼女は腕の振りをゆっくりとやめ、何もなかったかのように応えた。
「珍しいね。残業なんて」
 笑いを含んだまま、N課長は彼女に追いついて横に並ぶ。彼女は早足の歩をすこし緩める。
「システムエラーで処理が止まってしまって。今日中に片付けておきたかったので、係長に言って残業させてもらいました」
「そうなんだ。今夜はクリスマスイブだし何か予定があったんじゃないの?」
 からかいが滲んでいる。これだから、営業マンは口が上手だ。
 
「特には。こんな状況ですし、課の忘年会もないぐらいですから。それに、もうサンタなんて年頃でもありません」
 彼女はついムキになって、言い返した。ごめん、ごめんとN課長のマスクの目が細くなる。
「うちらの接待もめっきり減ったしなあ。いつになったら、前みたいにバカ騒ぎできるようになるんだろうな」
「お酒、お好きですものね」
 商談もオンラインが増えて、会食の機会が少なくなったのだと不満そうにぼやいた。
「お陰で家に帰るのが早くなったよ」
「家庭サービスができて、いいじゃないですか。たしかお子さんがいらっしゃいましたよね。今夜はサンタクロースに変身ですか」
「うーん」
 課長は目を伏せ、マスクの紐を耳にしっかりと沿わせるようにした。眉間に手をあててから決意をしたように勢いよく顔を上げた。
「実は、うちの子、4月から、入院しているんだ」
 思いもかけない言葉に彼女はそうなんですか、と絞り出した。
「難しい病気らしくてさ、Z病院に先月転院したんだ」
 病院の名前からどれほど深刻な状況であるかが、彼女には容易に想像できた。
「けど、看護師さんとか栄養士さんとか、スタッフの人たちも良くしてくれてて、ありがたいんだ。うちの子も来年はいい治療法が見つかるといいんだけどな」
「そうですね」
 気の利いた慰めの一つでもかけられたら良いのに、ともどかしく思いながらも、同じ言葉を繰り返すほかには見つけられずにいた。
「寒いな。少しは暖かくならないかな」
 N課長は声を高くした。
「ほんとですね。いっそ、雪でも降ってくれた方が少しはいいのかも」
「そうだな。あいつも喜ぶな」

 黙りこくったまま、駐車場に到着し、じゃ、と手を挙げるN課長に会釈をして、彼女は自分の軽自動車に乗り込んだ。スタートボタンを押し、車内が温まるのをしばらく待った。
 左前方の白いボディーのSUVも唸り声を上げていた。
車高の高いそれからN課長の頭だけが見えた。それは少しだけ前に傾いているようだった。
 カーラジオからジングルベルが聴こえてくる。車内は次第に温まり、彼女は着ていたダウンコートを脱いだ。
 音楽が変わった。男性ボーカルが、艶っぽくサイレントナイトを歌いはじめた。
 N課長の顔が揺れている。電話で話しているようだ。時折頷いたり、右左傾けたりしている。バックミラーには赤い帽子のサンタクロースのぬいぐるみがぶら下がって揺れていた。それに触れるたび毎に白い歯がこぼれた。
 彼女は課長は病院にいる子どもと話しているのだと想像した。
 フロントガラス越しに左から右へ光が流れた。流れ星かと思ったが、それは点滅していて、飛行機だとわかった。
 彼女は自然と両手を組んで目を閉じ祈った。
 流れ星でも飛行機でもいい。あの子の笑顔が見られますように。課長が幸せでいられますように。
 白いSUVが、チカチカっと合図をして駐車場を出た。彼女は見送るようにしばらく手を合わせていた。

end

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