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【ショートストーリー】吹きすさぶ嵐の中で

 台風が近づいているらしい。

「まれに見る大型なんだって。窓にテープを貼ったりしなくていいかな。ごはんのパックとか、カップラーメンも買っておいた方がいいかしら」
「そうだ、懐中電灯あったかな。乾電池も買っておかなくちゃ」
 テーブルの上にあったレシートの裏側に必要な物を書き留めていく。
「ママあ、おなかすいた」
「りくくん、お昼まだだったわね。ちょっと待ってね」
 冷凍チャーハンを取り出し、袋を引き開け、食器かごにあった適当な皿に全部ぶちまける。米粒が数粒こぼれて、流しに放りこまれたままの朝のコーヒーカップに入りこみ、茶色く染まった。まだ、洗い物が途中だったことに気付いたが、構わず電子レンジの扉を開け、チャーハーンを温め始める。
 台風が近づいているというのに、夫は配達の仕事に出かけた。
「こんな時に休んでどうするんだよ。稼げるときに稼いでおかなきゃ、お前だって困るだろう」
 こんな時だからこそ、そばにいてほしいのに、あの甘やかな時代はほんの数年前のことなのに、彼女の奥深くにしまってある大事なものは、もはや夫の頭の片隅にもないようだった。
「ママあ、チン、いったよ」
 はいはい、とレンジから皿を取り出す。
「ふうふうして食べてね」
 小皿に取り分けてやり、スプーンを渡すと、息子は行儀よく自分の椅子に座り、ふうふうと声に出しながら、大口を開けて笑顔を見せる。冷蔵庫から出したばかりの冷たい麦茶をごくりと飲み、つめたいね、とまた笑う息子に彼女は蕩けそうになる。
 子供は決して、好きではなかった。まだフルタイムで働いていたころ、通勤バスで乗り合わせたベビーカーを押す母親、腰よりも低い位置で手をつないだ幼い子供、ただ邪魔だとしか思っていなかった。
 けれどどうだろう、自分の分身がこんなにも愛おしいものだとは、誰も教えてくれなかった。
「りくくん、まだ食べたい?」
 口いっぱいにほおばりながらも、こくこくうなずく息子の器にスプーンに三倍、追加してやる。
「ママあ、ピリピリなってるよ。パパ、もしもし、かな」
 テレビの前で彼女のスマートフォンが呼んでいる。パパからかな、と彼女は息子に話しかけながら、胸の高鳴りを小さな息子に悟られないようにゆっくりと手に取る。
――台風、大きいみたいだね。大丈夫?
 彼女の心臓はトン、と跳ねた。
「先生」とディスプレイに表示された相手からのメールだった。
――ちょっと心配。
 胸を押さえながら、一句一句確かめるようにそれだけ返信する。
「ママあ」
 息子が呼んでいる。
「ちょっと待ってね。りくくんの先生から大事なお知らせが来ているの」
ーーそっちに行こうか?
「先生」の申し出に、彼女の心臓はどくどく、どくどくと打ち始める。
ーー行くよ。待ってて。
「りくくん、ママ、ちょっと出かけてくるわね」
 彼女は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出し、別のコップに注ぎ入れテーブルに置く。チャーハンの大皿から残りをかき集め、息子の器を山盛りにする。
「これ、おなかがすいたら、食べてね。麦茶も。あと、五時になったらパパも帰ってくるからね」
 ママあ、息子の顔が完全に崩れる前に、彼女はアパートの重たい鉄の扉を押し、外に出た。

 台風が近づく外では彼女の正面から、後ろから風が吹き付けた。乱れる髪が顔に降りかかり、速足で歩く彼女の行く手を遮ろうとする。
 下腹のほうから湧き上がってくる疼きが彼女を前へ、前へと駆り立てる。幼子の愛おしさをもってしても、それらの疼きをとどめることは出来そうになかった。
 彼女の柔らかな頬を激しい風が刺してくる。しかし、彼女はその痛みでさえ、心地よく、感じていた。手を動かして、風をかき分けるように彼女は前へと進む。
 彼女の細く、たおやかな体からけれほどの力があるようには見えなかった。
 風は激しさを一層増した。空の色が少し明るくなってきた。
 本格的な嵐がやってくるのは間違いなさそうだった。
                     inspired by 「風よあらしよ」
(了)



 

 

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