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もやもや

※暗い話です、ご注意を

『人を愛したい』は『人に愛されたい』の裏返し。『人を助けたい』は『自分が認められたい』の裏返し。

当然に返ってくるとは考えない方がもちろんいいが、『人に愛されたい』から『人を愛す』のは(大目に見れば)問題ないはず…双方成立させることが途方もなく難しいことを除けば。

『自分が認められたい』がために行う偽善も本当に誰かのためになるなら善になるだろう、そこには偽善も善もないはず。

自分の負(コンプレックス)から生まれるエネルギーは時として推進力となる。それはもはや『自分』を形作る一部となっており、切り離してしまえば自分が自分でなくなってしまう。

だが、自分の負(コンプレックス)から生まれるエネルギーはさしずめ燃費の悪いオンボロ車のように、推進力と引き換えに自分の中に排気ガスを残す。それはつまり「もっと頑張らないと自分は認められない」「結果を出さない自分は無価値」という思いだ。その排気ガスが次の活動のエネルギーにもなるわけだが、こうして書き出して第三者的な視点から見てみると痛々しい。自虐的な行為だなと感じる。

対して自分を成長させたいという向上心から生まれるエネルギーは、まるで太陽光や風力発電のようにクリーンだ。

嗚呼、自分が愛された実感がなく育つことのなんというハンデの大きさか。

嘆いても何も始まらないが嘆かずにはおれない。

トライ&エラーを繰り返しやっと得たノウハウは、大体の人が最初から持ち得ていたものと知った時の絶望感と恨めしさ(羨ましさ)は、思い出すだけで涙が出そうになる。

回り道をすればいろんな景色が見れるとはまさにその通りだが、同じ地点に立っている人はなぜ私がこんなにも傷だらけなのだろうかと不思議に思う事だろう。

自分を知り、まわりを知り、ある程度視野が広がったのはいいことだ。しかしながら前を見れば先行く人の道筋の眩しさに目がくらみ、振り返れば自分の来た道の不格好さに目を覆いたくなる。

それでも、どんなに遅くても歩みを止めなければ間違いなく前に進む。なんて強がりも言えなくなるほど疲れ切った時に、私はどうなってしまうんだろうか。

不安だ。

結びが見つからないこのnoteのように、私の心は宙を彷徨っている(などとうまいこといった風を装いながら終わりとしたい)。

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