心に寄り添うことの難しさ
吉川ひなのが宗教2世だったという記事を見た。
幼い彼女が芸能界で稼いだお金で生活していた両親は、娘の将来のために貯金をするわけでもなく豪邸に住み贅沢に暮らしていた。
彼女の心が限界をむかえて、それまでのように働けなくなっても、自宅までやって来てお金をせびる父親。
宗教上の理由で子供たちの誕生日を祝ったこともなく輸血も禁じていたのに、自分が病気になったらあっさり輸血を受けた母親。
両親に生活力がないせいで、子供の頃は電話や電気が止まったり、訪ねてきた借金取りの対応をさせられたり給食費が払えないなど、貧しい生活を強いられてきた。
とんでもねぇ毒親じゃないか!!と思うとともに、他人がどんなバックグラウンドを持っているかわからないものだと改めて思った。
傍から見てキラキラして楽しそうに見える人がどんな傷を抱えているかわからない。
職場で、「忙しすぎて疲れた。もう病んじゃって明日から仕事来れないかも」と冗談めかしてこぼした人に、「絶対大丈夫です。あなたみたいなタイプは絶対病まないですから!」と笑いながら返した人がいた。
励ましのつもりなのかもしれないけど、軽くあしらうような態度にヒヤヒヤした。
普段のキャラクターからしたら大丈夫そうには見えるけど本当の本当は大丈夫じゃないかもしれないし、精一杯のヘルプサインかもしれないのに。
どんなに近い人でも見えない部分はあるのになぜ大丈夫だと断言できるのだろう。
こういう、悪意は全くないけれど想像力が少し足りない言葉が積み重なるほど心が削られていくのではないか。
と思った直後、もしかして、この人はうつ病の家族のサポートをしているとか過去に心理職だったとか、本人の知識や実体験に裏付けされた言葉だったりするのだろうか?と思った。
確かめてないからわからないけど、簡単に想像力が足りないと思ってしまう私の想像力が足りないのかもしれない。
だとしても、受け取る側はどうだろう?
受け手の経験値や心の状態によってはやっぱり心を重たくさせる言葉になり得るのではないか?
(そもそも当人同士はすっかり忘れている軽いやり取りかもしれず、考えても答えは出ないことをこうして反芻していること自体が過剰なのかもしれない)
最近、「愚痴を言うのは感謝が足りない」という意味合いの言葉を遠回しに言われて少し傷ついたことがあった。
こんなことがあってちょっと残念だったんだよと軽く話したら、言い方なのか話の内容なのか、私が放った何かが相手のトリガーに触れたようで詳細を聞いてくれないまま諭された。
その時、モヤモヤッとしながら、私もこういうことやっちゃってるんだろうな…と思った。
この頃、ちょっとした嫌な思いをする度に、これまで自分が他者にしでかしてきたことを見せられてるような気がしてくる。
ただただ話を聴くこと、相手の心に寄り添うことが癒やしをもたらすと知っていても、人は自分の体験やアドバイスを伝えたくなってしまうし、自分の中の正しさと違っていることは少なからず否定したくなってしまうものだと思う。
ある程度歳を重ねたら自動的に大人になれるわけじゃないことと同じで、「聴く」はヒトに標準装備されていないスキルだと感じる。
みんながみんな自然に出来ることではないし、その人のその時々のコンディションにも依る。
心理士のカウンセリングを受けて以来、聴く技術を持った人と、そうでない人に話すときの差をすごく感じる。
場の空気もそうだし、話した後の気持ちの変化も全く異なる。
私を含め、聴く技術を習得していない人は、聴いてるようで、実はほとんど話を聴いていないのではないかとずっと思っている。
結局、自分が聞きたいように聞いている。
本を斜め読みするように、気になる単語を拾って、自分が好きなように解釈している。
私も「聴いてるようで聴いてない」を散々やって、人をモヤモヤさせたり傷つけてきたのだろう。
無意識に傷つけた人たち、無下にしてきた善意、壊してきた人間関係のことを思い出しては申し訳なく思う。
今までの私を許して繋がってくれている人たちにはもっと申し訳なさを感じる。
でもこれはいい傾向だとも思う。
もっとマシな、もっと善い、もっと優しい人になりたいと思えるから。
共感することが難しくても、理解しようとしたり、寄り添おうとすること。
諦めや無関心ではなく、気を向けて、見守ること。
正直な心で向き合い、対話し、尊重すること。
そういうことを、私が私にできてこそ、他者にもできるようになるのだと思う。
そのために日々の中でトライアンドエラーを繰り返すしかない。筋トレのようにコツコツと地道に。
方向を修正できるよう、なるべく気づいている意識でいること。
養生の日々は続く。
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