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奇禍に遭う 新宿編 6(中編小説)



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倒れ込むように自宅の扉を開く。
朋子がどたどたと廊下を走って駆け寄ってきた。
心配して暗い顔をしているかと思えば目はきらきらと輝き頬は紅潮している。

「まだ寝てなかったのか」
「ねえねえ聞いて!今日、オークションで何を見つけたと思う?」

うるさいな。
そう口には出さず黙ったまま邪険に押しのける。

「風呂に入る。寝かせて」

妻は敏感に察知してしょんぼりした。それきり黙って静かにしている。
こんなに汚れているのに気付かないのか?と思ったが、上着、カバンからも奇妙に吐瀉物の匂いはしない。
よほど丁寧に拭いたらしかった。
ワイシャツの胸ポケットだけは裏返して洗い、洗濯機に突っ込んでおく。

よう子さんが立って歩けるようになり、口調もしっかりしたので皆で駅のホームまで見送った。
何とか引っ越し先に到着できる最終電車に間に合った。

疲れた。
時計を見るともう一時を過ぎかけている。
何とか今日も一日を乗り切った。

まだ昂《たか》ぶっていて、心がそっくりそのまま新宿の中にある。
声高な叫び、ぐらつく体、ぐうっと動く喉だ。
ぱっくりと口を開けたような薄暗い店内の中に引き結ばれた薄い唇が見え、硬質な目が語り掛ける。

次もまたうまく行くとは思うなよ。

北村の唇が自然と動いた。

何度でも。

視線と視線がまたぶつかり合って、頭のなかでかちんと音がした。
非現実の中に置き去りになって、家にいるのに空中に浮かんでいるような気がした。

いつも崖だ。
常に崖だ。
いつ落ちるかなんて誰にもわからない。

この踏んでいる足すらもちっぽけな抵抗で、いずれ東京の巨大な鳴動と鼓動に飲み込まれていく。

妻がおずおず、肩に手を当てた。

「ねえねえ、東京都台東区ってどこ?」
「区で言われると広すぎてわからない。どこ?」

妻が横から突き出してきたメモを暗がりの中、顔をしかめて読み取ろうとする。

「これか。御徒町だよ。秋葉原と上野の間」
「そっかあ」

妻は無心にその住所を眺めている。
ペンを取り出して『あきはばらとうえののあいだ』と書くのが見えた。
何も知らずに、のんきなもんだ。
苦笑すると共に急激に眠気が来て、今度こそ落ちるように北村は眠りについた。





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