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What a day 今日はなんて日(短編小説・ダーク)





ひまだ。
寝転んでテレビを見ながら、彼はシャツ一枚になって長く体を伸ばした。
妻が食器を洗いながら後ろから言う。
「看護士さんのお友達がね、ここまで何とか抑えているのは、日本人が持つ普段からの衛生意識と無関係ではないと思うって言ってた」
「ここまで大変なことになるとはね」
うちの会社いつまで持つかな、と言おうとしてやめた。不安にさせても仕方がない。ストレッチをしながら見上げると、対面式のキッチンカウンターからこちらを見下ろしている妻と目が合った。
妻はにっこり笑う。
「頑張ろうね」

能天気だな。
いつも前向きで明るさを失わない妻なのだ。無理をして崩れたときはガタガタッとなる。そうならないようにこちらも気を付けていなければ。
彼は家のことなど何も出来はしないから、働いて稼いで来るという名分をなくしてしまえばどうしていいのかわからない。突然、放り出された余暇に甲斐甲斐しく手伝おうとするのもわざとらしくて面映ゆい。
テレワークと言えば聞こえはいいが、営業の彼は何もすることがない。手持ち無沙汰にテレビをつける。

会社からの通達は、商品についてよく研究、調査しておくこと。
営業先も軒並み休業中とあっては調査のモチベーションも上がらない。eラーニングのカリキュラムが送られてきたが、内容は「ハラスメントの防止」「部下の叱り方のポイント」「マネジメント・マニュアル」「コミュニケーションの育成」
不要不急のものばかりだ。

懐かしいドラマが流れている。なんとなく流していたが、見るからに人と人との距離が近くて、内容もさっき手持ち無沙汰に開いたeラーニングのハラスメントにも抵触しているように思えてならない。
ニュースに切り替えた。
もううんざりだと思うウィルス関連のニュースの方が、今の気持ちに寄り添うように思えた。

後ろから、中学生の息子が話しかけてきた。
「今、病気が流行って大変だからお店がやれなくて、たくさんの失業者が出てるんでしょ」
見上げると、息子は椅子の上に膝を抱えてテレビの方に顔を向けていた。こちらからでは顔が見えない。声だけが降ってきていた。

「田舎のほうは土地が余ってるんでしょ。人手が足りないんだよね。だから外国人労働者に来てもらおうとしてるんだよね」
「よく勉強してるね」
「そう習ったよ」

ここの所、会話を交わすこともなかったひとり息子だ。何を考えているかわからないと思っていたが、そんなことを学んでいるのか。
気をよくして、彼は寝転んでいた体を起こしてあぐらをかいて座り直した。いい社会勉強になる。
「これ以上続いたら経済の方がもたない。みんなぎりぎりで回してるのに。それで今はその外国人労働者の受け入れもストップしているから、さらに困ってるんだよ」
「どうして今、失業した人たちがそこに行かないの?」

彼は言葉を失って我が子を見つめた。

「人が足りないんでしょ。失業者がそこに行けばいいんじゃないの」
「お前…そう、簡単に行くわけじゃない」
「どうして?海外から日本に来る方がよっぽど難しいと思うけど。日本語って難しいみたいだし」
「自分のやりたい仕事とは、違うからというのも、あるし…」
かろうじてそれだけ答えることが出来た。

「外国人労働者の人たちは、本当にその仕事がやりたくて来たの」

この子はこんなに大きかっただろうか。
目の前に膝を抱えているその膝も太く肉がついていて見るからにずっしりと重い。存在が重い。
いつの間にか頭はカウンターをやすやすと越すほどのび、胸も広がっている。頬はまだ、見慣れた柔らかさなのに、よくよく見ればうっすらとうぶ毛が黒くなっている。

眼前にさっと扉が開かれる思いだった。
苦い、苦しい風が吹く。嵐だ。
自分が逃げ出してきたものが息子のことばを通して押し寄せてくる。

「簡単じゃないんだよ」
やっとのことでそれだけ言う。
だれが戻りたいものか。だれがやりたいと言うんだ。肉体労働でもあり、つらく、薄給で…。
追いやり、捨てて省みなかった過去がどっと背中から迫り手を伸ばしてきているのを感じた。あの甲高いのにどす黒い糾弾の声までが聞えて来るようだ。この何も知らないはずのわが子の唇から呼び出された。
思わず、体が前のめりになっていやな汗が出てきた。
跳ね返そうと、強い声が出た。

「お前はじゃあお父さんが行くからって言われたら行けるか?遠いところに。友達とも会えなくなるし、学校も転校になるよ。店もない、遊ぶ人もいない」

あの子最近、学校に行きたがらないの。そんな風に妻が言っていたことを突然思い出した。今まで真面目に考えていなかったことを思い知らされる。

「本当に仕事がなくて困ってて食べられないんだったら行くよ。だってそれしかないじゃん。どうしてみんなそうしないの」

こともなげに言う。その語調にはまるで切迫感がない。机上の空論だ。
いい就職先がない、と言えば人手不足なんじゃなかったの、と返されそうだ。
得られる仕事は薄給だし大学も遠すぎて通わせることが出来ない。
ひとがいないから結婚相手もいない。子供も育てられない。

次々に頭の中であげつらってみながらも、ふと疑問に思う。
ならばそんな場所にどうして外国人労働者を送り込もうなんて思ったのか。
そうこの子は言っている。無意識に痛い所を突いているのだ。

あはっ、という笑い声に似た声と同時に妻がいきなり咳き込んだ。
息子は椅子を回し姿勢を正したし、彼はさっと体を起こして妻の方を見た。
「大丈夫か?」
「大丈夫、大丈夫」
妻は笑っている。
「YouTube聞いてたんだけど、面白いこというからむせちゃったの」
緊張したのが恥ずかしくなるような笑顔を見せた。
「洗い物なんていいから、置いとけよ」
付け加えた。
「拭くぐらいやるから」
「すぐやっちゃいたいの」
予想通りの返事がすぐ帰ってきた。妻も付け加える。
「洗い物、好きなんだし」
笑いすぎたのか奇妙に頬が赤かった。

彼は考え込む。
まだ息子の言葉が棘のように胸に刺さって消えなかった。
お前にはわからないんだろうな。
ここまで毎日頑張って踏ん張ってやっと、やっと、手に入れた生活や家やお母さんみたいな人、おまえのような子供も、支える力を失ってすべてをなくしてしまう人の気持ちが。
努力が無に帰して、慣れた場所を追われる気持ちが。

「一番つらいのは気持ちが折られることだ。心がつぶされたらもう戻れない。生きてることも死んだのと同じになってしまう。そうしたらもう、新しい場所で新しいなにかをはじめようなんて気持ちにはなれないだろうよ」
「考え方でしょ」

息子は椅子をくるっと回して突き放したような話し方でことばを続けた。
その仕草が彼にはやけにもったいぶって偉そうに…『都会的に』見えた。

「今の時代ネットがあるんだから。いくらでも販売のやり方あるじゃん」
「できる人はいい。お父さんがいつも営業で行ってるお店の気のいいおやじさんたちを見てみろ。そんなのできない人がほとんどなんだ」

ほんの一握りであるどころか、ネットで売ろうなんて甘い声にだまされてなけなしの金ももぎ取られていく人もいる。

彼は息子の方に再度向かい、大人らしくたしなめる方向に舵を切ってみた。
「それにおまえ、そんなことをよその世界のことみたいにあっさり言って、いま苦しんでる人たちにも、家でじっと我慢してる人たちにも、それから必死で命を救おうとしてる医療関係者の人たちに失礼だろ。お母さんのお友達なんてずっと家に帰れてないみたいなんだぞ」
「その人たちの努力を否定する気はないけど、今はそういう次元で話してないから」

特に反抗的な気持ちから言っているわけでもなく、息子は慣れているように自然に答えた。
「あまり好きじゃないし」
「お母さんの友達のおばさんが?」
「いや、ちがう。そうじゃなくて」
息子は笑っている。今日は妙に饒舌だった。
「もっと大変な人がいるとかって言う論法。そっちとこっちは別だから」
「なんだって?」
「下を見たらきりないし、それって優劣をつけて優越感を利用するでしょ」
「おまえ、それはね」
さすがに声が大きくなった。
「他人事だから言えるんだ。お父さんがなってみろ…」

こいつはおれが死んでも困りはするけど、そこまで悲しまないのかもしれないな。
ちらっとよぎった考えが大きくなった声を抑えて鎮めてしまう。

実家の周辺、かつてはマンモス団地と呼ばれていた界隈が今は火が消えたように静かで、8クラスもあった学校はひとクラスしか使われていない。
無意識に耳をふさぐような仕草をする。
おれは悪くない。あいつらが悪いんだ。
自分が向いていないと感じるおしゃべりに永遠に付き合わされる苦痛をちょっと回避したかっただけだ。なのに、そこからは粗野で直接的な嫌み、白い目付きの連続だった。
独特な土地の価値観の中にどっぷり頭の上にまでつからなければならない。でなければ不純物としてはじく。

ここには人が多いから彼は紛れることが出来た。選択肢が多いから理解してくれる妻と出会うことも出来た。
ひとりでいたいと思えばひとりでいさせてくれる自由があった。
色んな人がいるから、と思ってくれる。その余地がどれほどありがたかったか。わかるまい。
蓋を開けてみれば、進学であちこちへ散った同級生たちが故郷に戻らない者が多いことに、奇妙な納得をしていた。

息子は話し続けていた。相変わらず、他人事のように。
それでもきっと他人事という感覚はなく、彼は彼なりに考えている。考えてはいるのだろう。
「環境問題のことも習ったよ。あちこちで空気が綺麗になってるんだよね。中国でも、イタリアでも。空が澄んで星が見えて、動物が戻ってきてる。それでお父さんも家にいるでしょ。お母さんも。学校にも行かなくていいし」
「学校には、行かなきゃだめだ!」
「どうして。オンライン授業でやれるのに。答えがあってて点数出しても出席が足りないと駄目っていうのはおかしいよ」
お前、おまえは何もわからないくせに。子どものくせに。何をえらそうなことを言っている。社会の仕組みも、経済活動のことも知らないくせに。
ずっと息子はこちらと目を合わせない。いつの間にかテレビ画面は変わっていた。バラエティ番組の中の笑い声をバックに息子はつぶやく。
「くるってる」

故郷の土地の人のことを知らないだろうが、あの土のにおい、風のそよぎもお前は知らないだろう。
体を通り過ぎていくだけで汚いものがすべて洗われ濾過されていく。
少しでも感じて欲しいと思い連れて行く川や人工的なキャンプ場ですら興味を示さないじゃないか。

あんなのは本当の自然じゃない。
背丈よりも高い草の中を虫かごをぶらさげてどこまでも走っていく。堆肥の匂い、石を蹴って転がせばわっと虫たちが散開する。
小川に足を突っ込んだ時の足を取られるぬめり、足首をくすぐる水の流れ。
何一つ遮ることなく空いっぱいに広がる星々のきらめきは白い砂を撒いたように、目を閉じればからだごと天空から包んで持ち上げる。ひと一人の存在などちっぽけで、だがこのすべてを体いっぱいに感じることが出来る心の広がりは永遠だ…。

今も愛している土のにおいを目を閉じて息を吸い込んだ。
あれだけ感じて生きていければどんなにいいだろう。

いま戻っても、昔ほど孤独とは思わないのかもしれない。
妻は何事も深く気にしないほうだ。
確かに今はインターネットがある。
でも、その仕組みを支えているのは巨大産業だ………。
電気がいる、ガソリンがいる。

やっていけるだろうか?
あの場所に戻って仕事を選ばず働き始めたとして、この子を大学に行かせるだけのお金を稼ぐことが出来るだろうか?もう体は疲れてきしみはじめている。
この子に結婚相手は出来るだろうか。
年を取ればどうなる。さびれてゆく街で、病院もなく、年金ももらえる保証なく、それから…。

この騒ぎが終わったら、人々はもう一度経済活動をまわそうとしゃにむに、がむしゃらに動き始めるだろう。
人間というウィルスがこの地球を蝕んでいる。
この地球を覆うオゾンの穴にマイクロプラスチックと放射能の海?
誰か、何もわかっていないさかしら顔の子供の言いそうなことだ。

これほど恐れおののく、命を奪うウイルスがもたらしたものは何だ。
スモッグは消え、人の動きは消え、青空と星空が支配している。
野性動物たちは戻って来た。

そうやって人なんて死んでしまえばいいというのか。
地球という全体を見たら人という種族なんて自粛して小さくなって巣穴に籠り、恐れながらすたれて行った方がいいって?
ひとりひとりの気持ちが積み重なって巨大になれば、それはほかの命を圧迫するんだと?

死んでもいいっていうのかな、おれが。
おれの息子がそう言うのか。
いままでの働きは、頑張りは何だったんだろう
オレハイママデナンノタメニ。

ぐるぐるとめぐる思考の渦に耐えかね、妻をすがるように見ると、耳にはイヤホンが刺さっている。頬は熱に浮かされたように赤く、陽気に体を動かし、リズムをとりながら皿をふいていた。髪は肩先でゆるやかに揺れ、唇が動いている。
ふっと肩の力が抜けた。
そうだ、彼女がいれば。たとえ息子が去って行っても彼女がそばにいるなら。おれに残されるなら。

ふっと吐いた息のなか、良いほうに変わる未来が彼にも漠然と見えた。
満遍なく集団移住され、外の人間が入り込んだこととネットによって見える化されたことで、地方で手ごわく力をふりかざす権力も時の流れに洗われて影をひそめる。
入ってきた外国人労働者の人々がよい刺激になって、よそ者を忌避する感情も緩和される。
自宅にいても首都圏の担当者と会議が出来る。
勉強は最前線の教授の授業が動画で配信されている。
無理をして遠くの学校に通う必要もないのだ。
理解度はテストによって判断されるから、無駄に出席日数を気にする必要もない。

そんな未来を語り合ってみよう。
話してもみよう。遅くはないはずだ。
どうせ今、時間はあるのだから。
じわじわと首のしまる不安に背中を向けて。希望だけを見ていよう。

妻がまた突然、何かが喉につまったようなせきをした。
彼はまだ物思いにふけっている。息子がまた椅子をまわして妻の方に体を向け、じっと注視した。
「どうしたの?」
洗い物を終えた妻が手を拭き拭きこちらに現れた。まだ咳き込んでいる。
「平気平気。ちょっと喉がいがらっぽいだけ」
彼は立ち上がって妻のそばへ行き、額に手を当てた。額のふちがじんわりと汗ばんでいる。
「ちょっと熱っぽいね」
「そう?」
妻も冗談のように手をのばしてこちらの額に触れてくる。
妻の手はひんやりとしていた。
洗い物してたから、と言いかけてまた彼女は激しく咳込んだ。背中に手を置いた彼の手ごと、体温計を取りに行く息子の足先が彼女の体の動きに合わせてぶれて、揺れる。

こんな時に、どうしたんだろう。大したことがなければいいが。
What a day.
今日はなんて日だ。



おわり



※この作品は完全にフィクションであり、実在する人物・地名・団体・ウィルスとはぜったいにまったく一切、関係ありません。




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