見出し画像

夜の静寂にふさわしい物語。

 いま手元に、小川洋子さんの『密やかな結晶』がある。タイトルの「密やか」という言葉の響きと表紙の彫刻の魅惑に取り憑かれて、本屋で手に取った本だ。ページを開くと、1ページ目から文章の美しさに目を奪われてしまう。

 この島から最初に消え去ったものはなんだったのだろうと、時々わたしは考える。「あなたが生まれるずっと昔、ここにはもっといろいろなものがあふれていたのよ。透き通ったものや、いい匂いのするものや、ひらひらしたものや、つやつやしたもの……。とにかく、あなたが思いもつかないような、素敵なものたちよ」
子供の頃、そんな物語を母はよく話して聞かせてくれた。

『密やかな結晶』p7より引用

 前から読書日記を書こうと考えていたが、どう書けばいいか分からず、保留にしていた。このままだと、ずっと書けないままになりそうなので、今日はとりあえず書いてみたいと思う。


 主人公の”わたし”は、ある島に住んでいた。その島では、ある日、記憶が消滅する。何の前触れもなく、出し抜けに。

 朝起きると、「消滅」は始まっている。消滅のサインは、ベッドの中で目を開けた時に感じることができる。空気の張りにざらつきがあるのだ。消滅が起こった時の町の様子について、”わたし”の母は次のように述べている。

「消滅が起こるとしばらくは、島はざわつくわ。みんな通りのあちらこちらに集まって、なくしてしまったものの思い出話をするの。(中略)でも、そんなちょっとしたざわめきも、二、三日で治るわ。みんなすぐにまた、元通りの毎日を取り戻するの。何をなくしたのかさえ、もう思い出せなくなるのよ」

『密やかな結晶』p8より引用

 リボン、鈴、エメラルド、切手。とうの昔に「消滅」によって失った物たちだ。人々は、これらの名前を聞いても、思い出すことすらできない。しかし母は、島から消え去ったはずのものたちを、家の地下に置かれたタンスの引き出しにこっそり隠し持っていた。

 母はなぜ記憶を失わないのか。いけないと分かっていて、なぜ隠し持っているのか。疑問は深まるばかりである。

 母から消え去った物についての話を聞いた際、”わたし”は次のような感想を抱く。

母の口にする言葉はまるで、外国人の少女か新種の植物の名前のようで、わたしをぞくぞくさせた。

『密やかな結晶』p10より引用

 もし僕たちがこの島の住人だとしたら、これらの記憶を全て無くしたとしたら、確かにそう聞こえるかもしれない。それに、本文中の「ぞくぞく」という表現も興味をそそられた。

 まだ読んだことのない人は、小川洋子さんが紡ぎ出す、密やかな世界を堪能してほしい。

秘密警察

 さて、この作品のキーワードに「秘密警察」がある。秘密警察の任務の一つは、「消滅の徹底」にあった。彼らは、人々の記憶から消え去った物を島から排除していくのだ。

 秘密警察は、深緑色の上着とズボンを着て、黒いブーツを履いていた。腰には武器を携帯していた。秘密警察は皆、おそろいの服装をしていたが、襟元にとめられているバッジだけが各々異なっていた。台形、六角形、T字形など、多種多様なバッジがあった。

 秘密警察は、いつもとつぜん現れる。彼らは、土足で他人の家へと上がり、強引で、乱暴で、無表情で、冷徹だった。淡々と効率的に作業を遂行していく。こちらのお願いに答える様子は一切ない。

 島の人々は、秘密警察に刺激を与えないよう静かにその様子を見守っていた。ひそひそ話をする者もいた。彼らに異を唱える者は、ただちに連れ去られた。

 また、「記憶狩り」といって、記憶を失わない特殊な人間も、秘密警察に捕まった。秘密警察は、子供ですら容赦はなかった。

 『密やかな結晶』を読んでいると、「鳥」に関する描写が多いことに気づいた。もちろん、主人公である"わたし"の父親は、野鳥の研究者だったから当たり前かもしれない。

 けれど、「鳥」に関する記憶を失った後でも、「鳥」という言葉に実感がもてなくなった後でも、「鳥」に関する描写はつづいていた。

 たとえ記憶を失ったとしても、”わたし”の心の奥底には、密やかに残っているのかもしれない。だから、”わたし”の心のタンスの中には、「鳥」は息づいていたのだと思う。密やかな結晶として。

 ここからは、「鳥」に関する描写を紹介しよう。まず、「鳥」の記憶が消滅した時のシーンの描写だ。

せめてその羽ばたき方や、さえずりや、色の具合を、自分の中にとどめておこうとしたが、無駄だった。 (中略) それは羽を上下させることで宙に浮いている、ただの生き物にすぎなかった。

『密やかな結晶』p20より引用

 消滅が始まった瞬間から、「鳥」に関する記憶が薄れていく。「鳥」の姿形も思い出せなくなる。「鳥」という名前ですら、馴染みのない言葉の羅列と化す。とにかく、島の消滅は徹底されていた。

 次に、秘密警察が父の書斎から「鳥」に関する記録を押収しようとした際の描写だ。

無言で、目つきが鋭く、無駄な動きがなかった。紙のこすれ合う音だけが、鳥の羽音のように漂っていた。

『密やかな結晶』p23より引用

 最後に、島から「小説」が失われ、自分の本を処分する時の描写だ。消滅の儀式にしたがって、最後の一冊を燃やそうと手を離したシーン。本が放射線状に舞ってゆく姿が鳥に見えたのだ。

ふと、その本の姿が何かに似ている気がした。(中略) 私は思い出した。鳥もあんなふうにして羽を広げ、遠くへ飛んでいった。けれどその記憶もすぐに炎にかき消され、あとにはただ夜が広がるばかりだった。

『密やかな結晶』p301より引用

 他にも、「鳥」に関する描写はあったと思う。キーワードを決めて、探して読んでみるのも面白そうだ。

疑問点

 秘密警察に連れ去られた人々は、どうなったんだろう。記憶を失わない人々は、島のどこかで生きているのだろうか。この小説を読んでいると、ふとそんな疑問が脳裏によぎる。

 もしかしたら、秘密警察に連れ去られた人々は、秘密警察になってしまうのだろうか。僕がそう思い始めたのは、島から「左足」が消滅した時だった。

 ある日とつぜん、島の人々は「左足」の記憶を失ってしまう。みんな手すりに捕まったり、塀に寄り添ったり、傘を杖代わりにしたり、とにかく左足の扱い方に困っていた。

 すると、とつぜん、パトロールをしに来た秘密警察が現れる。彼らは、何事もなかったかのように、二本の足でふつうに歩いている。

しかし流石に、彼らの歩き方はしっかりとしていた。今朝突然、前代未聞の消滅に襲われ、厄介な物体を押し付けられたとは思えないほど、うまくバランスをとっていた。

『密やかな結晶』p400より引用

 秘密警察は、何も失わないのか。いつまでも記憶を留めておくことができるのか。逆に、記憶を失わない人々が秘密警察になっていくのか。もちろん、この真相はわからない。それでも、考えを巡らせていると、子供の頃によく読んだ星新一の『国家機密』というショートショートをふと思い出した。なつかしい。


 今回紹介した『密やかな結晶』を読んだことがない人は、ぜひ手にとってほしい。小川洋子さんが作りだす、今にも壊れそうな世界を堪能してほしい。人々が寝静まった夜の静寂にふさわしい密やかな物語だと、僕は思う。

次に読むなら

角田光代さんの『さがしもの』という文庫本に収録されている『旅する本』という小説を読んだ。読書日記を書いたので、ぜひご覧あれ!!

この記事が参加している募集

サポートして頂いたお金で、好きなコーヒー豆を買います。応援があれば、日々の創作のやる気が出ます。