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カリスマ講師の「神」授業を受けた話。

僕は大学受験に失敗し、浪人を余儀なくされた。田舎にある予備校で浪人生活が始まった。

振り返ってみると、1年間という短いような長い浪人生活だった。そのなかで、僕が今でも強く印象に残っている英語の先生がいる。
(ここでは、N先生と呼ぼう)

僕は、N先生と出会って、教室で授業を受けてみて、それまでに感じたことのない躍動感を抱いた。授業が終わった直後は、まるで映画を見終わった時のような不思議な気持ちになる。授業の復習をする時間は、映画のワンシーンをありありと思い浮かべるような、そんな楽しいひと時だった。

もちろん、N先生が凄いと感じていたのは僕だけではない。大教室に集まった生徒達みんなが感じていたことだと思う。授業中、寝ている人は誰一人いなくて、生徒達の期待がぐるぐると教室の中を渦巻いていた。ひと言も聞き逃さないぞと言わんばかりに、みんな真剣なまなざしで聞き入っている。

先生は、生徒達から「神」と崇められていた。僕もその一人だった。神は、与えられた90分という時間を完全に支配していた。僕たちは神の話に共感し、歓喜し、ときにはけらけらと笑い転げた。神は自由自在なのだ。

僕は当時から「いつか生徒に英語を教えてみたい」と考えていたので、予備校の授業を聞くときも、少し風変りな授業の受け方をしていた。先生からモノを教わるのではなくて、先生がどのようにして分かりやすくモノを教えているのかを注意深く観察していた。

授業の展開の仕方、板書の作り方、雑談のタイミング。プロの予備校講師の授業方法を知る絶好の機会だと意気込んでいた。

しかし、N先生の時だけは違った。色んな先生の授業を受けたが、あの神の授業だけは、それが通用しない。講義についていくだけで精一杯だったし、そもそも何を教わっているのかすら分からなかった。

三流の先生は、分かりにくい指導をする。二流の先生は、ありきたりな授業をする。一流の先生は、オリジナリティに富んだ分かりやすい説明をする。僕のなかで、講師をこんな風に分類していた。

神の授業は、それをはるかに凌駕する。超一流の先生は、何を言っているのか分からないけど、感動する授業を創り出す。

分かりやすい授業は、内容がすんなり頭に入る。だから、分かった気になりやすい。要するに、復習の機会を奪ってしまうのだ。

一方、神の授業は、よく分からない部分があるからこそ、何回も復習して次の授業に臨もうとする。必死に予習もする。それでも、次の授業でさらに新しいことを学んで感激し、復習をする。その繰り返しだ。

ああ、もう一度受けてみたい。

タイムマシンがあれば、その瞬間にだけ戻りたい。今なら、授業の意図がもっと掴めるようになっているだろうから。そんな事を考えている、今日この頃である。

2021.6.18

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