見出し画像

短編小説|ありがとうカフェ

少しまえに書いた『ありがとうカフェ』を書き直しました。
町にひっそりとたたずむ不思議なカフェのお話です。15分くらいで読めると思います。時間がある時に、ゆっくり読んでみてください。
できれば、コーヒーを片手に。

 ある日の夕方、近所を散歩していると、見慣れないお店を見つけた。そこは、赤いレンガ造りの外観をしていた。看板には「ありがとうカフェ」とだけ書かれている。

 店の前の庭には、見たことのない花がいくつか咲いていた。それは、五つの花弁のついた白くて小さな花だった。何の花だろう。小さな花は「こちらへおいで」と、手招きをしているような気がした。僕は吸い込まれるように、花に近づいていく。気づいたときには、僕の顔は花壇を見下ろしていた。ジャスミンのような甘い香りがした。

 顔を上げると、そこには小さな窓があった。僕は窓を覗こうとしたが、薄暗くて中の様子がほとんど見えなかった。どんな店だろう。

 僕は、その店の重たいドアを押した。

 中に入ると、想像はあっという間に裏切られた。店の外観とは対照的に、少しレトロな内装をしていた。カフェというよりは、昔ながらの喫茶店のような雰囲気が漂っていた。

 客は2、3人が点々といるだけで、店内に流れるジャズの音源がやたらと大きく聞こえた。新鮮なコーヒーの香りが店内をふわーっと包み込み、僕は匂いにつられた小動物のように、匂いの住処へと近づいていく。僕はカウンター席に腰を下ろした。

 不思議なことに、あたりを見渡しても、店員らしき人の姿はなかった。僕は机の上に置かれたメニューを手に取ると、背後から「チリーン」という音が聞こえた。店のドアベルの音だ。どうやらお客さんがひとり帰ったらしい。

 先にお会計は済ませてあるのだろうか。お金を払わずにお店を出たのだろうか。いや、今のはお客さんではなかったのだろうか。僕の頭の中で、そんな疑問が絶え間なく渦巻いていた。

「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいましょう?」

 不意に声を掛けられて、どきっとした。顔を上げると、そこにいたのは、白髪のお爺さんだった。目元のしわからすると、六十半ばくらいだろうか。お爺さんは、満面の笑みでこちらに顔を向けている。おそらく、この喫茶店の店主なのだろう。

 「ホットコーヒーをひとつ」

 僕は、無難に注文を済ませた。

 「ありがとうございます。美味しいのを作って参ります」

 そう言うと、お爺さんは深々とお辞儀をして、キッチンの方へと消えていった。

 しばらくすると、ゴォーという音が店内に響き渡る。BGMをかき消すほどの大きな機械音だった。僕はビクッとした。やがて機械が止まると、コーヒーの香りが店内に充満した。

 コーヒーは、数分のうちに届けられた。コーヒーの入った真っ白のカップからは、白い湯気がもくもくと立ち昇っていた。まるで、煙突から煙が出ているかように、それは高く高く昇っていった。僕はただそれをじっと眺めていた。白い湯気は、やがて天井をすり抜けていった。

 コーヒーを載せたお盆を見ると、チョコレートが一粒添えてあった。

 「あれ、チョコレートなんて、頼みましたっけ?」

 「こちらは、サービスでございます」

 店主はそう答えると、コーヒーの説明をゆっくりと始めた。

 「本日は、ウガンダのコーヒーをご用意しました。少し酸味がありますが、フルーツのようなさっぱりとした味でございます。ぜひチョコレートと一緒にお召し上がりください」

 そう言うと、店主はふたたび満面の笑みを浮かべて、深くお辞儀をした。それから、キッチンの方へと消えていった。

 僕はさっそく、もらったチョコレートを口に運ぶ。

 「苦い...」

 それは、カカオを多く含んだダークチョコレートだった。僕は口に含んだことを後悔した。それから、お口直しにコーヒーを口に運ぶ。

 その瞬間、コーヒーがチョコレートを包み込む。まるでフライパンの上のバターが円を描きながら溶けていくような、そんな不思議な感覚が口の中で始まろうとしていた。チョコーレートは口の中に広がって溶けていき、やがてそれはシャボン玉のように一瞬にして消えていった。最後は、コーヒーの持つジューシーな味わいだけが口の中に残った。

 この店に入ってから、不思議なことばかりが起こる。まるで夢を見ているか、それとも別世界に迷い込んだような衝撃だ。

 しかし、驚くのはまだ早かった。お会計をしてもらおうと席を立った時、店主は思いがけない言葉を僕に投げかけてきたのだ。

 「お金は頂けません」

 最初は何かの冗談かと思った。僕はすかさず、「どういうことですか?」と聞き返す。

 「お金は頂けません」

 そういえば、初めからこの店は奇妙だった。店内にはレジらしきものはないし、テーブルには会計伝票が置かれていない。おまけに、メニュー表には金額も書かれていなかった。

 「いや、払わないわけにはいきません。これだと、無銭飲食です」

 「それは他のお店の場合でございましょう」

 店主はそう言うと、ゆっくりとした口ぶりで話をつづけた。

 「お客様に<ありがとう>を言って頂く、それだけで十分でございます。むしろ、それこそが私にとっての最高のご褒美なのです」

 そのあと、僕は何度も支払いをしようとしたが、店主がお金を受け取ることは最後までなかった。なにしろ、向こうがそこまで言うのなら仕方がない。心の中で、そう繰り返し言い聞かせた。何度も何度も。

 僕は「申し訳ないです。ごちそうさまです」とだけ言うと、店主はふたたび満面の笑みをこちらに向けて、深くお辞儀をした。ようやく、僕は店を出た。

 お腹は満たしたけれど、満足は得られなかった。カフェは美味しいドリンクや料理を提供し、居心地の良い空間を演出する。客はそれに対して正当な対価を支払う。満足した客は、そのカフェに足繁く通う。これが客と店主との正常なコミュニケーションではないのか。

 もちろん、僕が間違っているわけでも、店主が間違っているわけでもなかった。要するに、どちらか一方が悪いのだと、断じることはできなかった。もっとも、店主は支払いを拒んだのだから、客である僕は、ただそれを受け入れるしか手立てはなかった。

 僕は、やり場のないこの感情を誰にも向けられず、匂いにつられた小動物が深い森の中へと迷いこんでしまったような暗澹あんたんとした気持ちに苛まれた。


 翌日、僕は友人と二人でカフェに行った。そこは、友人の行きつけの店だった。彼は、大のカフェ好きで、町中のカフェを点々と回るのが趣味だった。コーヒーにもうるさい男で、僕が缶コーヒーを飲んでいると決まって、「そんなのコーヒーじゃない」と言い出す始末だ。

 その日に僕たちが訪れたのは、駅前にあるオシャレなブックカフェだった。店内はとても広く、ほとんど満席といった感じで、多くの人々で溢れかえっていた。

 同じフロアには書店があった。
そこに置かれた本を三冊までなら、自由に持ってきて読んでもいいことになっていた。コーヒーを片手に、購入前の本をゆっくりと品定めすることができるこのカフェは、老若男女問わずとても人気があった。

 あるマダムの集団は、料理本から手軽に作れるレシピを見つけては、「ほら、見て。こんなに簡単」と言って、料理の話題で盛り上がっていた。ある高校生たちは、購入前の参考書を並べて、黙々とノートに数式を書いていた。僕はホットコーヒーを飲みながら、彼らをじっと観察していた。

 僕はとても窮屈に感じた。
まるで広い体育館で体育座りをして、校長先生の話を聞いているくらい窮屈だった。なにしろ買ってもいない商品を無料で読むなんて、僕にはできなかった。

 友人を見ると、『コーヒー豆の栽培と焙煎ばいせん』という本を読んでいた。開いていたページには、白い花の挿絵が載っていた。僕は、その花をどこかで見たような気がした。何となくそんな気がした。

 「コーヒーノキ(コーヒーの木)って知ってる?」

 友人は、ページに書かれたコーヒー用語を僕に投げかけてきた。いつものことだ。僕は合言葉でも交わすかのように、「知らない」と即答した。彼はコーヒーカップに手を伸ばすと、コーヒーを一口飲んだ。それから、いつものコーヒー講座が始まった。

 「コーヒーノキって、白くて小さな花を咲かすんだよね。でも、その花は健気にも、二、三日で散ってしまう。それから、すぐに木に赤い実がなるんだ。その中に入っている種を焙煎ばいせんすると、コーヒー豆になるんだ」 

 コーヒー講座が無事に終わると、友人はコーヒーを飲み干した。コーヒーに満足したのか、それとも自分の語りに満足したのか、彼は満面の笑みを浮かべていた。そんな彼を見ていると、昨日のカフェを思い出した。

 「この辺に、<ありがとうカフェ>っていう店があるんだけど、知ってる?」

 僕はそう言うと、彼は首を傾げながら「知らない」と答えた。

 「実は昨日行ったんだけど、コーヒーが感動するくらい美味しいんだ。それなのに...」

 感情のはけ口を見つけた僕は、興奮して話をつづけた。

「それなのに、店主は<ありがとう>と言われれば、お金は受け取らない主義で、こちらが支払いの提案をしても、拒むんだよ」

「最高のカフェじゃないか。近くに、そんな店があったんだ」

 僕の気持ちは、友人には届かなかった。それどころか、彼はふたたび満面の笑みをこちらに向けていた。僕は、何だかそれが昨日の店主のように見えてきて、なんとなく不気味に思えてきた。


 けっきょく、友人をあの店へ連れて行くことになった。僕は何度も「行きたくない」と彼に告げたが、僕の要望はあっさりと却下されてしまった。

 あの店主は、ちゃんと店にいるのだろうか。今日もお金を受け取らないのだろうか。コーヒー通の友人があのコーヒーを飲んだら、はたして美味しいと思うのだろうか。僕はどれも気がかりだった。

 店の重たいドアを開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。中は薄暗く、数人の客がまばらに座っており、相変わらず店主の姿はなかった。新鮮なコーヒーの香りだけが、僕たちを出迎えていた。

 僕たちはカウンター席に腰を掛け、メニュー表を見た。右端から、ホットコーヒー、カフェオレ、カプチーノ、ウィンナーコーヒーと並んでいる。相変わらず、金額は書かれていなかった。

 けれど、昨日とは何かが違っていた。それがBGMだと気づいたのは、店主に声をかけられた、まさにその時だった。

 「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいましょう?」

 店主は出し抜けに現れた。
僕は昨日と同じように、「ホットコーヒー」とだけ伝えた。友人も「同じので」と言った。

 「ありがとうございます。本日は、ラテンアメリカのコーヒーをご用意致します。コーヒー好きのお連れさまも気に入って頂けると思います」

 友人は、自分がコーヒー通であることを知らせるシグナルでも送っていたのだろうか。コーヒー好きだけが使う合言葉でもあるのだろうか。店主は、まるで全てを知っているかのように、前置きを済ませた。

 それから、「美味しいのを作って参ります」とだけ言い、満面の笑みを浮かべた。昨日のように深くお辞儀をして、キッチンの方へと消えていった。

 しばらくすると、豆を挽く周期的な音が聞こえてきた。昨日とは違う音だった。まるで巨人がコーヒー豆をすり潰しているような奇妙な音が響きわたる。やがて音が聞こえなくなると、新鮮なコーヒーの香りが店内に充満した。そしてその香りは、僕たちに少しずつ近づいてきた。  

 「お待たせしました」

 急に声をかけられてドキッとした。目の前には、お盆を持った店主がいた。

 「こちらは、挽きたての豆でございます。ラテンアメリカのコロンビア産の豆で、水洗式で作られております。ぜひ、香りを嗅いでみてください」

 僕たちは、挽いた豆の入ったカップを手に取ると、それを鼻に近づけた。友人を見ると、目をつぶってカップを近づけたり遠ざけたりしながら、香りを楽しんでいた。僕も真似をした。店主はそれを見て、満足そうにキッチンへと戻っていった。

 今日のカフェには、BGMがなかった。店内は、とても静かだった。だから、店の奥にあるキッチンの音が聞こえくる。ペーパーフィルターに挽いた豆の粉を入れる微かな音や、ゆっくりとお湯を注ぐ音、カップにコーヒーを注ぐ音でさえ、とても大きく聞こえた。

 「ところで、テイスティングって知ってる?」

 「知らない」

 僕たちはいつものやりとりを交わすと、コーヒー講座が始まった。今日のテーマは、コーヒーテイスティングについてだった。

 「コーヒーテイスティングというのは、コーヒーの味を言葉で表現することなんだ。同じコーヒーでも、品種や加工法、淹れ方によって味は大きく変わってくるんだ。だから、コーヒーの味の違いを知るには、テイスティングをしないといけないんだ。やり方は、いたって簡単。まずはコーヒーの香りを嗅ぐ。それから、ラーメンを食べるときみたいにコーヒーを啜って口に含む。最後に、それを舌の上で転がす。この三つのステップを踏んでいくんだ」

 講義がひと段落すると、僕たちはキッチンの方に視線を向けた。ちょうどその頃、店主がお盆にコーヒーとホワイトチョコレートを載せて、こちらへやってくるところだった。

 「お待たせしました。コロンビア産の豆でご用意した美味しいホットコーヒーでございます。コロンビアには、たくさんの火山があり、ミネラルが豊富な土壌により、コーヒー栽培には、たいへん適しております。また、この豆は水洗式で作られており、酸味もコクもほどよいバランスで、口当たりが良いかと思います。そして、こちらのホワイトチョコレートと相性抜群でございます。ぜひコーヒーを一口飲んだ後に、ホワイトチョコレートとのフードペアリングを楽しんでみてください」

 長い説明を聞き終えると、友人はコーヒーの香りを嗅いでいた。僕も真似して嗅いだ。それから、友人は音を立てながらコーヒーを啜った。僕も啜った。

 コーヒーの香りと風味が同時に感じられた。僕はコーヒーを啜っている間、まるで遊園地にあるコーヒーカップのような優雅でゆっくりとした時間が流れているような気がした。

 それから、ホワイトチョコレートを口に運ぶ。その瞬間、チョコレートはぐるぐると渦を巻きながら、口の中で溶けていった。まるで生キャラメルを食べたときのように、一瞬にして口の中で消えた。

 ふと横目で友人の方を見ると、彼は目をつぶっていた。どうやら、味覚と触覚に集中しているらしい。今日の彼は、とにかく真剣だった。

 それからどのくらい経っただろうか。
僕のコーヒーは残りほんのわずかだった。僕は最後のひとくちを飲み干すと、まるで優雅な時間の終焉を知らせるかのように、体が重たくなった。そういえば、僕はこのカフェに来たくなかったのだ。

 僕は友人のコーヒーカップを覗くと、真っ白のカップがきらりと光っていた。コーヒーは一滴たりとも残っておらず、全て飲み干していた。そして無神経にも、僕が聞きたくないセリフを投げかけてきた。

 「これでタダなんて、本当にこの店ってスゴイよな」

 「でも、こんなに美味しいコーヒーをご馳走になったのにお金を払わないなんて、わるいよ」

 「でも店の人がそう言ってるんだろ」

 すると、店主はどこからともなく現れて、「はい。お金は頂けません」と言った。それから、「このカフェは、お客様からの感謝で成り立っておりますので……」と付け加えた。

 店主にそう言われたとき、僕は「あ」と叫んだ。頭の上の豆電球が黄色く光ったかのように、体に電気が走った。僕は閃いてしまったのだ。

 それから、僕は友人にそっと耳打ちをした。彼は、「うん、わかったよ。そうしよう」と言った。店主は何が起きたのか分からず、困惑している。僕はなんだか体がふわっと軽くなったような気がした。

 僕たちは立ち上がり、店の戸口まで行くと、「最高に美味しかったです。ごちそうさまです」と言った。店主は顔をしわくちゃにさせながら、微笑んだ。まるでサンタクロースから初めてプレゼントを貰った少年のような無垢な笑顔だった。それから店主は、「ありがとうございました」と言って、深く深くお辞儀をした。

 僕たちは、店を出た。

 「チリーン」というドアベルの音が静寂な店内に響き渡る。カウンターの隅には、2枚の五百円玉がひっそりと肩を並べていた。

<了>

サポートして頂いたお金で、好きなコーヒー豆を買います。応援があれば、日々の創作のやる気が出ます。