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自分が好き、?

自己肯定感。


 よく聞く言葉。自己肯定感。そんな話をしていきたい。

 今回、「そのままの自分をいいよって言える」という意味、すなわち読んで字の如くの意味で、自己肯定感という言葉を使う。それが自分じゃん、それでいいじゃん、みたいな。これが出来たら苦労しねえよ、という話をしたい。
 何でって、僕はこれが出来ないからだ。

 僕は自己肯定感が低い。言い方を変えれば、僕は自分のことが大して好きではない。きっと一生好きにはなれない。自分のことが好きではない理由なんて山ほどある。普通になれなかったこととか、大して高くない身長とか、整ってない顔立ちとか、正しく鉛筆を持てないこととか、頑張りきれないカッコつけとか。好きじゃない。


 わざと好きじゃない、という言い方をしている。だって、嫌じゃないか。
 僕は、好きな人が自分を嫌いだと言っているのを、否定はしないけれど、好きにもなれない。僕の好きな人を悪く言わないで、は、好きな人自体を否定するから言わない。でももし、好きな人が僕を好いてくれて、信じたいと思ってくれているのであれば。あなたを信じられなくても、あなたを嫌いでもいいから、あなたを好きな僕を信じて。そんなことを、願うから。
 僕のことを好いてくれる人がいない、とは、言わない。もしかしたらいるかもしれないから。いたとして、そしたらその人に失礼だから。自分をむやみやたらに過小評価するのは、僕に優しい言葉をくれる人達に失礼だから。

 少し脱線した。余計な話ではないけれど。
 自己肯定感が低いことって、もしかしたら、失礼なのかもしれないなあ、と、思ったのだ。
 別に誰かに対して思ったわけではない。これを読んでいる貴方が、自分のことを肯定できないからって、それが失礼なことだとは思わない。
 
 僕自身の、自己肯定感の低さが、失礼かもな、という話だ。
 
 僕のことを好きな人なんて誰もいないよ、とは、言えないし言いたくない。だって知っている。知らないとは言えない。僕は多分、ちゃんと誰かに好いてもらっている。少なからず、好きだという言葉をもらったことがある。一人の人間として。そこに恋愛感情とかを持ち込むと面倒な話になるから、とりあえずまず、そんなものを含んでいない「好き」であることはご承知願いたい。
 Twitterのフォロワーさんとか特に。お褒めいただくことが多々あって、その度に本当に救われている。ありがとうございます。全部ブックマークに保存してる。
 誰かが好いてくれているのに、きっとその誰かは、僕が好きな人なのに。その人の「好き」を僕が否定したくない。だから僕は、できるかぎり「自分が嫌い」とは言わないようにしている。
 実はこれ、こんな話を書いている小話があるから、ちょこっと読んでほしい。かっこいい短歌の人間の話

 自分が嫌い、とは言わないけれど、好きにはなれない。
 なんでだろうな、と、考えていた。

 例えば。ずっと僕には、比較対象がいた。自分より幼い家族である。向こうの方が可愛がられるタイプで、僕は酷く我が儘な子供で。向こうにだって劣等感を抱く瞬間とか、比較されて泣いたこととか、きっとあるんだろうなとは思う。というか言われた覚えがある。ずるいって。なんであなただけって。
 例えば。僕には、僕だけが愛された記憶がほとんどない。下の家族がいる、と言えば大抵、上のだけに構う時間があった、と同義なはずなのだ。そうじゃなかった。一人っ子の時間がなかった。下の家族ばかり優先された。手のかからない子であることがいいことだと思っていたし、そうあろうと思っていた。優先されないことが当たり前だった。
 それを当たり前として飲み込んでしまえたら、良かったのだ。中途半端に求めなきゃよかった。違和感に気付かなければよかった。欲しがってしまうから、空っぽなことに気が付いてしまって。でも僕は、愛されやしないから。空っぽの何かは、満たされなかった。そりゃそうだ、だって愛される子はすぐ隣にいるんだから。
 愛されるほど、いい子でもない。誰かの特別でもない。唯一でもなければ、優秀でもない。
 愛される資格など、ないのだと思った。今も正直、思っている。

 僕の自己肯定感の低さは、多分身内の影響だと思う。こう言い切ってしまうのは、多分良くないことなのだとは思うけれど。両親だって、平等に愛を注いでいると思っているのだと思う。そして多分、それは本当なのだとも。
 愛されるのが下手くそなのだ。だって、それは僕のものじゃない。愛されたいとは、思わないこともないけれど。僕がもらえるものじゃない。そんな思い込み、言ってしまえば被害妄想が、染み付いてしまっている。誰かが悪いのではなく、多分誰かが悪いのだとしたら僕で。
 あの子の方が、ずっとずっと、望まれた子で。
 僕はきっと、あの子の下位互換で、要らない人間。

 もう少し踏み込んだ話をしよう。実際に多分、というか当時の母にとって、子供は望んで産んだものでは、きっとなかった。今はどうかは聞いたことがないけれど、ふと昔の話を聞いたとき、そんなことを溢していた。
「プレッシャーだったんだよね、義理のお母さんの、孫期待してるねって。だってもういい年だったし」
 父の実家が、少し古風、といえば聞こえはいいかもしれないけれど、そんな考えや何やらが充満している家であることはいい加減僕も身に染みている。それを息苦しく感じることもしばしばだった。
 それでも、そのときの僕には、「プレッシャー」という言葉が重かった。仕事をもっと続けたかった、子供なんて、そんな思考が、わかってしまったから。

 人格否定、まではいかないものの、僕を否定されたことも何度もあった。今さら傷付いたなんて泣きはしないが、思い出す度に吐きそうになる。幼い頃から、叱られる度に言われていた「言葉じゃなくて態度で示せよ」あたりがいい例だと思う。あとは「そんなもの書いて何になるの」とか「頑張ってるアピールいらないから」とか。挙げたらキリがないし思考も沈むだけだから、このあたりでやめるけれど。
 ちなみにフラッシュバックのあれそれはこっちに書いてある。

 まあだから、多分身内のせいだ。人格なんて生まれつきだけれど、自己が形成されるのなんて育った環境次第だし。幼い頃のなんやかんやで、きっとこの自己肯定感というやつは作られるのだと思う。

 自己肯定感の上げ方は知らない。知ってたら今頃こんな話を書いていない。多分創作もしていないし、もっと平和に生きていた。
 自分がどうやって形成されたかなんて、想像したり推測したりはできても、正解は分からない。そりゃそうだ。どこまでが遺伝子に組み込まれてるのかなんて知らないし分からないし。だから、ここにあるのは全部僕の想像だ。
 できることなら、僕だって、自分のことを肯定したい。だって誰かからの好きを、素直に受け止められない。酷いときには好きっていうことも出来ない。好き、なんて、僕に言われても迷惑だろ、って。そう思ってしまうから。

 なんともとっ散らかった考察である。それでも、多分僕がこの言葉、自己肯定感という文字列に対して抱いている感情はこんなものだ。
 僕は僕を、きっと一生好きになれない。だからきっと、僕はなにかを書くんだろうな、と、思っている。

 そう、自己肯定感が低いことって、多分失礼なんだけどさ。それでも僕を形成する一つでさ。ものを書く理由でさ。
 そんな自分もいいかなって。ほんの少しは、思っている。

 さて。どうでもいい僕の自分語りは、ここまで。
 あなたの思考の手助けになれば、それだけでこの文章の意味がある。

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