見出し画像

哲学#011.変えることのできない現実を乗り越えるには。

私が哲学をやってきてよかった思うことのひとつに、楽観でもでもなく悲観でもない視点を得ることができたということがあります。
世界は調和していて素晴らしいというような一面的で楽観的な世界観にだまされることもないし、また、苦しみに満ちているからといって世界を全否定するような悲観的な考えにとらわれることもありません。ただ現実を見つめ考え粛々(しゅくしゅく)と行動することで、人生という時間を旅することを味わっています。
 
人生とは旅のようなものだと語る老人の実話を元にした映画『ストレイト・ストーリー』【※1】は、人の一回生(有限性)という限界と可能性を示した優れた映画だと思います。
主人公のストレイトは73歳で人生の黄昏にさしかかっていて、アメリカのアイオワの農業地の粗末な家で軽い知能障害がある娘と2人で質素な暮らしをしています。腰を悪くしていて2本の杖に両手を突っ張って体を支えなければ、立ち上がることも歩くこともできません。そんな彼が500kmほど離れたウィスコンシンに住む脳卒中で倒れた兄のところへ行くという物語なのですが、その行く方法が凄いのです。目が悪くて車の運転ができないうえにお金もないため、トラクターに自分で板切れを張り合わせて作った小さなおんぼろトレーラーをつないで、数週間かけて行くのです。
トレーラーは人が1人眠ることができるぐらいの大きさで、夜になると畑の隅にトラクターを止めて野営し、彼はその中で眠るわけです。
500kmほどの距離というと東京から大阪の間ぐらいです。そこを時速8kmのトラクターで行くわけです。歩く速度の2倍ぐらいの進み具合でしょうか。

その旅の途中で様々な出来事や人に出会うという、いわゆるロード・ムービーなのですが、アメリカの狂気を描きアブノーマルな作風で知られる監督のデヴィッド・リンチが、これほどまでにノーマル(良識的)な映画を撮ることができるのかと驚くほど淡々として温かくて清々しくてしみじみと味わい深い作品です。私はかなり涙腺が緩みました(笑)。
広大な畑地帯に真っ直ぐ伸びる一本道をのんびりトコトコとトラクターで進むそのスピードが、人の心の整理のスピードとうまく寄り添って、ちょうどいい按配です。

ストレイトは旅の途中で自転車のロードレースをする若者たちに出会ったとき「年をとっていいことは何?」と聞かれます。彼は次のように答えるのです。
目も足も弱っていいことなどないが、経験は積むからな。年とともに『実』と『殻』の区別がついてきて、細かいことを気にしないようになる」と。

私はこのセリフを聞いたとき、親鸞がよく使う『真実明』という言葉を思い出しました。あぁ、考える人が考えると、アメリカの人でも日本の人でも同じようなところへ到達するのだなぁと思いました。
 
」とは偽りへつらわないということで、「」とは内容のあること、「」とは明るいというか私なりの解釈ではいわゆる幸せとか喜びとか美味しいとかそういうことです。
要するに『真実明』とは、真に内容のあることをつかむことが幸せにつながるということなのだと思います。
 
内容のあること」と言葉にしてしまえば簡単ですが、「内容のあること」と「内容のないこと」の区別をつけるのは難しいことです。「意味」を読みとる力がなければ「実と殻の区別」をつけることなどできません。つまり、「大事なこと」と「どうでもいいこと」の区別をつけることができないということです。
 
意味」を読みとる力とは、「真実」を読みとる力といってもいいと思います。映画の主人公ストレイトは、それができるようになったと言っているのです。
彼には富も名声もありません。どちらかというと「負け組」です。しかし、後ろから来た車がビュンビュン追い越していく道を、おんぼろトラクターで雨に濡れながらトコトコと進んでいく姿は、なぜか惨めではないのです。なぜか応援したくなるります。そのひょうひょうとした姿は、むしろうらやましくも見えます。尊いと感じさせられるのです。
 
親鸞の言葉を集めた『歎異抄』に次のような一節があります。
念仏者は無礙(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇(じぎ)も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし」【※2】
無礙の一道という生き方をしている者には、天や地のあらゆる存在がその生き方を尊敬し、魔のような存在や異なる考えの人々も、その生き方をさまたげることはできない
 
この一節は『歎異抄』の中でも名句として知られているもので、実に味わい深いというか、格好いい句だと思います。
無礙」とは、文字どおりに解釈すると「差し障(さわ)りがない」ことです。とすると、「無礙の一道という生き方」とは「差し障りのない生き方」ということになります。
 
で、「差し障りのない生き方」とはどのような生き方なのか、と考えると難しくなってきます。そもそも人は「差し障りのない生き方」などできるものなのでしょうか。
差し障り」とは、病気、事故、天災、人間関係のトラブル、老い、死など不幸の数々です。
 
ある程度人生経験を積んだ人なら誰でも、人生というのは「差し障り」だらけだということに気がついているはずです。この世に生まれた人で「差し障りのない人生」を送った人など、誰もいないはずです。
では、「差し障り」だらけの人生を「差し障りなく」生きるということはどういうことなのでしょうか。
 
哲学者も芸術家も肩書きのない人々も賢い人はそのポイントに気がついているものなのだと思います。
たとえばモーツァルトは、就職活動に失敗し、その途中で母親を亡くし、そのうえ失恋まで重なった「差し障り」のどん底だった22歳のころ、父親への手紙に次のように書いています。
それが現実だったら、楽しいよりは悲しい僕の生活を我慢できるようにしてくれるものとは何でしょうか」と。
 
モーツァルトは天真爛漫な曲を書いていることから、さぞかし楽しい人生を送ったことだろうと想像する人は多いと思いますが、実際は苦しいことの方が多かった人だと思うのです。
才能はあったけれど就職先には恵まれず、ヨーロッパ中を就職活動して回ったり、初めて夢中になった恋人はハンサムな舞台俳優にとられ、自分の才能を育ててくれた父も母も息子の成功を見ることなく亡くなってしまい、結婚した妻は性格はいいけれど病弱で浪費家で、6人生まれた子供のうち4人を幼くして亡くし、いつもお金の心配をしながら35歳の若さで亡くなってしまいました。彼の仕事が真に評価されるようになったのは死後のことです。
 
たぶんモーツァルトは苦しみや悲しみから逃げるのではなく、それをそのまま受け入れて音楽を創造することで乗り越えていったのではないかと思うのです。だからこそ、楽しい、悲しい、苦しい、恋した、怒ったという、人が生きているからには必ずくぐっていく心の世界を音楽で表現することができたのだと思います。そこに人は共感するのではないでしょうか。
モーツァルトの曲が、悲しいはずの曲も苦しいはずの曲も、なんだか明るく感じられてしまうのは、そこに秘密があると思うのです。つまり『真実明』なのです。
よくよく考えてみれば、苦しみがなければ喜びもなく、迷いがなければ悟りもないのです。
 
そのように考えていくと、苦しみに満ちた世界という「現実」を逃げることなく見つめ、乗り越えるを探すことで開けてくる世界()があるということに気がつきます。
仏教ではそのような境地を「自覚」「覚悟」というそうです。
差し障り」という「現実」と対峙することで、変えることのできない「現実」と変えることのできる「現実」を見極め、変えることのできない「現実」を知り受け入れたとき自己が生き、そして乗り越えるを探すことができるのだと思います。
つまり「差し障りだらけ」の人生を受け入れ乗り越えることで、人生を「差し障りなく(平気で)」生きていく「覚悟」ができるということなのだと思うのです。
 
無礙」とは「自由」と解釈することもできます。キリスト教でも「真実を知ることで人は自由になる」という教えがあります【※3】。これも『真実明』と同様の考え方だと思います。
 
話を映画に戻すと、主人公のストレイトは多くを語ることはありませんが、その態度で様々な苦しみに遭遇しては乗り越えてきたことがわかります。
なぜわかるかというと、彼は礼儀正しくて親切で謙虚で人に頼るようなことはしません。自立(自律)しているのです。ヨボヨボに老いてはいるけれど存在が凛としています。
 
彼は旅の途中でもいろいろと問題にぶつかりますが、それを恐れることはありません。粛々(しゅくしゅく)と現実に向き合い考え賢く対処していきます。ただ「大事なこと」を守り、自分の生をまっとうしていきます。人はその「覚悟」と強さに感動し共感し尊敬の念を抱くのだと思います。そこには現実の苦しさを乗り越えることでしか到達できない境地があります。それが仏教でいうところの「生死即涅槃(しょうじそくねはん)」なのだと思うのです。
 
生死即涅槃」とは簡単にいうと、生まれて苦しみ老いて死ぬというプロセスはイコール(即)心安らぐプロセスにつながっているということです。
映画のモデルとなったストレイトさんやリンチ監督が「生死即涅槃」という概念を知っていたかどうかはわかりません。しかし、映画はそれを表現していました。
多くの人は、富や名声を求めるだけでは人生は虚しく、それが成功ではないと理屈ではわかっています。しかし、それが具体的にどういうことなのかをしっかりつかんでいる人は少ないのではないでしょうか。映画『ストレイト・ストーリー』は、そのヒントを示しているものだと思います。
 
で、いまの世界の現実とはいったいどういうものなのでしょうか。多くの人は目先の個人的なことばかりが気になって、自分がいまどのような世界の中で生きているかということに意識が及ばないかもしれません。
しかし、気がついたときには、とんでもない流れに巻き込まれてしまっていたという事態を避けるためにも、ときには少し視点を引いて大局を眺めてみることをお勧めします。
 
実はこの稿を書こうと思ったきっかけは映画『ストレイト・ストーリー』ではありません。実話を元にした『ロード・オブ・ウォー』【※4】という天才的な武器商人を主人公にした映画を観て、世界の戦争を抑制している組織は国連安保理でその常任理事国は米・英・露・仏・中の5カ国ですが、よくよく考えてみると世界の主な武器輸出国が、なんとその5カ国そのものであるという笑うに笑えない現実に気づかされたしまったからです。流行病や予防注射やマイナンバーカードなど「新世界秩序」に向けての動きも、もはや陰謀論と片付ける時期も過ぎたかと思います。
いったいどうすればこの流れを阻止することができるのでしょうか。はっきりいって、目の前が真っ暗という感じです。ところが私の心は妙に清々しく安心してしまったのでした。
 
なぜ安心したのか不思議でいろいろと考えているうちに、現実がどれほど過酷なものでも、現実の問題を正しく認識し、それに対峙する「覚悟」と可能性が安心につながるということに思いが至ったのでした。
つまり、真実を知ることができたという安心感と、その真実を見ているのは私ひとりではないという安心感です。少なくとも『ロード・オブ・ウォー』を作り国連安保理が武器商人の組織であると暴露した人々や配給した人々は、その真実を多くの人に伝えることに意味を見いだし問題提起をしたのです。

現実をないがしろにしないことで開かれていく境地があると思います。現実をないがしろにしない経験を積むことが、年とともに「実」と「殻」の区別がつく人間になる秘訣なのではないでしょうか。 
「覚悟
」を決めさえすればは開けていき、変えることができないと思っていた現実を変える可能性が見えてくると思うのです。
いま、戦争は武器商人のビジネス、医療さえも製薬会社のビジネスの面があることが明らかになってきました。そのビジネスの餌食とされ捨て駒にされることを拒否するのも「覚悟」です。その「決断」こそが、「安心(平気)」へとつながっていくなのだと思います。

国連安保理が世界の平和と安全の維持のための組織であるという一般認識は「プロパガンダ(宣伝戦略)」です。ある意味それは「仮想現実」です。
その現実を「拒否」する「覚悟」を決めるということは、そのプロパガンダされた「仮想現実」から抜け出すでもあると思うのです。

                                     


【※1】
『ストレイト・ストーリー』(1999年/アメリカ)

監督:デヴィッド・リンチ
出演:リチャード・ファーンズワース、シシー・スペイセク

NYタイムズに掲載された実話を基にした映画。デヴィッド・リンチはどちらかというと『イレイザーヘッド』に代表されるような人間の闇の部分を悪夢のように表現してきた人で、このような爽やかな明るい映画を撮ることができるとは意外でした。しかし、この監督の極致は、皮膚に訴えかけてくる音と映像の妙味。アメリカの広大な畑地帯に昇る朝日や夕陽、雷雨、風、星空など、壮大な風景と音と音楽をうまく使ってこちらの心に揺さぶりをかけてきます。意識下に訴えかけてくるとでもいいましょうか。わたしは最初から最後までなぜか涙腺がゆるみっぱなしでした(笑)。

【※2】『歎異抄』第七条より

【※3】ヨハネの福音書(第8章32節)より

【※4】
『ロード・オブ・ウォー』(2005年/アメリカ)
製作・脚本・監督:アンドリュー・ニコル
出演:ニコラス・ケイジ、イーサン・ホーク
アンドリュー・ニコルはカルト的に人気が高いスタイリッシュな映画『ガタカ』の監督として知られる人。美術や音楽のセンスが抜群で、この映画でもオープニングでまるでミュージックビデオのようにバッファロー・スプリングフィールドの名曲『For What It's Worth』にのせて、銃弾から見た視界というユニークな視点で、銃弾が製造され箱に詰められ様々な交通機関を経て海外に運ばれ銃にこめられ、そして最終的にはどこへ行き着くかという「銃弾の一生」をポップに描いてみせます。銃弾の行き着く先とは、もちろん人の体、つまり「死」。この衝撃的なオープニングにドッキリさせられた後も数々のシニカルな出来事がテンポよく進んでいきます。
製作はアメリカとなっていますが、テーマがテーマなだけに資金をアメリカから集めることができず、外国からの投資でまかなったようです。配給もカナダのライオンズゲートフィルム(イラク戦争の裏を暴いた映画『華氏911』の配給会社)です。
内容は、どちらかというと好感をもてる人物が悪意のないままに巨大な悪の歯車のひとつになっているという恐ろしさを描いたもので、「俺は自分の才能を生かしているだけだ。戦争は必要悪なんだ」と彼が言うと妙な説得力があって愕然とさせられます。
それにしても主演のニコラス・ケイジ、どんなに悪いことをしていてもなぜか好感がもてる人物を演じきることができる人は他にいないと思えるほどのハマリ役。巨匠と呼ばれている監督たちがこの人を使いたがる気持ちがわかるような気がしました。


楽観論も悲観論も私のとるところではない。私は可能論者である。

マックス・ラーナー(ジャーナリスト)

 【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?