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哲学#013.生か死か、このままでいいのか、いけないのか。

「To be, or not to be」
これは、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』のあまりにも有名なセリフです。
生か死か、それが問題だ」と訳されることが多いです。
そしてこれは、人間にとってあまりにも普遍的な問題です。生きる意味を考えたことのある若者は、一度はこのたぐいの苦悩の経験があるのではないでしょうか。この作品が書かれたのは約400年前です。その頃も現代と変わらない苦悩を抱えた若者がいたということなのでしょう。そう考えると、感慨深いものがあります。
なぜ普遍的なのかというと、前稿「哲学#012.どうせ死ぬのに、なんで生まれてくるのだろう。」で述べた「納得」と「尊厳」に関わっていることだからです。
 
このセリフは「生か死か」と訳すべきなのか、「このままでいいのか、いけないのか」とすべきなのか見解が分かれていますが、どちらにも一長一短があり、いっそのこと「生か死か、このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と合体してしまえばいいのではないかとさえ思います。
 
意味的には「このままでいいのか、いけないのか」の方が近いのかもしれませんが、その意味を理解するためにはまず「生死」の問題を考えておかなければなりませんので、「生か死か」の方が、どういうたぐいの問題なのかということを推測しやすいとも思います。
また、このセリフを舞台で言うのであれば、歌舞伎の見栄やオペラのアリアと同様に、やはり一般には定番になっている「生か死か」の方が観客は受け入れやすいのかもしれません。

ハムレット』はデンマークの王子ハムレットの物語です。王だった父が亡くなり、叔父が王位に就いており、未亡人となった母を妃にしています。
で、ハムレットにはオフィーリアという恋人もいて、これからの幸せな人生を夢みていました。ところがある日、亡くなった父を殺したのが、今は母の夫となっている叔父ではないかという疑いをもつわけです。
このまま知らぬふりをしていれば、オフィーリアと結婚してデンマークの王子としてそれなりに幸せな生活を送ることはできます。しかし、知ってしまった以上、自分を偽ることもできません。
自分を偽らずに生きるには、この問題の「決着」をつけなければならないわけです。それには死の危険がつきまといます。彼は初めは死を恐れて「決断」を迷うのです。彼は自問します。
 
生か死か、それが問題だ。どちらが男らしいか。凶暴な運命の矢と弾を耐え忍ぶのと、苦難の荒海に立ち向かい闘って終止符を打つのと。死ぬこと。死は単なる眠りにすぎない。眠れば心の憂いも肉体の苦しみも消えてなくなる。願ってもない幸いというものだ。しかし、眠れば夢を見る。それが嫌だ。この現世のつらさから逃れても、その先で見る夢を思うと心が鈍る。だからこのみじめな人生にも執着が残るのだ。でなければ、誰が世の非難に耐え、権力者の横暴を黙って忍ぶだろうか。誠意なき裁判や不実な恋の痛手も、その気になれば短剣の一突きで死ねる。なのに人生の坂道を汗水たらして上ってゆく。死後に不安があるがゆえだ。旅立った者が1人も戻らぬ未知の世界。心が鈍る。慣れぬ苦労をするよりも現世で耐えようと、思慮が人を臆病にしてしまうのだ」【※1】
 
私も「死ねば楽になる」とは思います。唯物論的に考えてみれば、「死ねば無になる」ということになります。死んだ者はその時点でもう何も感じることはないはずです。夢など見るはずもないし、死後の世界などあるはずもありません。
しかし、多くの人はそう簡単には割り切ることができないのではないでしょうか。そう簡単には割り切れない「何か」が人間にはあるような気がするのです。私はその「何か」を否定することができないでいます。「納得」できないのです。考えてみれば不思議なことです。
 
で、自分の頭で考える人間は、ここで次の問いを発するわけです。「死ねば楽になる」と言い切れない思考や感情を人間がもつのは何故かと。
ハムレットは次のような問いを発します。
 
人間とは何だ。死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在か? それでは獣と全く同じだ。客観的に考え行動する力を、神は人間に与えた。それを使わずにカビさせるためじゃない。違うさ。その力を忘れたか。…(中略)…真の勇気は無造作に剣を取ることではなく、名誉のためには藁くずにでも命をかけて闘うことだ
 
ハムレットは苦悩の末、「死ぬまで寝て食うだけの日々を過ごす存在」ではなく、「名誉(尊厳)のために闘う存在」になることを「決断」します。そのことで、もはや死は彼にとって恐れる対象ではなくなってしまうのです。
 
これはどういうことかというと、自分がいずれ死んでしまう存在であるという事実に真っ正面から向き合って、では自分はどう生きるべきかということを論理的に考え、その結論に「納得」したからだと思うのです。
また、賢いハムレットは「」のことも忘れてはいません。最後に彼は次のように言います。
 
死は今くるか、後でくるかだ。とにかくいつかくる。覚悟が肝心だ。現世は仮の宿、早死にもあるさ。運に任せる
 
やるべきことを決断した後は「ケセラセラ、なるようになるさ、Let it be」なのです。
 
というわけで、400年前も今も、人がこだわるのは自分の「尊厳」であるということがわかると思います。戯曲『ハムレット』が今も繰り返し上演されるのは、人々にとって「生か死か、このままでいいのか、いけないのか」という問いが重要なものだからなのではないでしょうか。
 
誰もが生まれてくることで偶然か必然か環境による苦悩を背負います。ハムレットの場合は血縁の人間関係が問題を抱えていました。彼は自分で望んでそのような環境に生まれてきたわけではありません。運命なのです。
スピリチュアル界隈では「人は自分で環境を選んで生まれてくる」と言われていますが、たとえそうだとしても、やらなければならないことは同じです。誰に文句を言うわけにもいきません。自分で背負うしかないのです。

そういうふうに考えていくと、人というものは、それぞれ個別の問題を抱え、一生をかけてその問題に「決着」をつけていく生き物なのではないかとさえ思えてきます。
 「このままでいいのか」と思ったときは、たぶん「このままではいけない」ということなのだと思います。ときには立ち止まって「いずれ死ぬ存在」である自分の来し方行く末を考えるのもいいのではないでしょうか。

いずれ死ぬ存在」というと、哲学的・芸術的には「メメント・モリ」という言葉が有名ですね。直訳すると「死を忘れるな」ということで、要するに「自分がいつか必ず死ぬことを意識しながら生きろ」ということです。
 それを意識することで、自分の「尊厳」だけでなく他者の「尊厳」も考えることができるようになると思います。そうなると、人間関係も変わってくると思うのです。認識できる世界も変わってくることでしょう。豊かな人間関係を築いて、「納得」できる人生を送りたいものです。

                                     


※冒頭の画像は、イギリスが誇る名優ローレンス・オリヴィエが製作・監督・主演を務めた映画『ハムレット』(1948)のものです。
 
【※1】
このセリフは、マイケル・アルメレイダ監督、イーサン・ホーク主演の映画『ハムレット』(2000)からの引用です。この映画は西暦2000年のニューヨークに舞台を移したもので、イーサン・ホークがセックスピストルズのシド・ヴィシャスを上品にした感じでハムレットを演じていて、なかなかよいです。彼はマルチメデイア企業の社長の息子という設定です。「生か死か」のセリフは、レンタルビデオ店の中でつぶやかれます。日本語訳も、原作の翻訳本よりこなれていてなかなかよいです。


【後記】
納得」は仕事をするうえでも重要な要素だと思います。次回は「納得」を求めて仕事をした人々の例を紹介してみようと思います。

『この世は考える者にとっては喜劇、感じる者にとっては悲劇』

ホレス・ウォルポール(UK作家)


 【管理支配システムに組み込まれることなく生きる方法】
1. 自分自身で考え、心で感じ、自分で調べること
2. 強い体と精神をもつこと
3. 自分の健康に責任をもつこと(食事や生活習慣を考える)
4. 医療制度に頼らず、自分が自分の医師になること
5. 人の役に立つ仕事を考えること
6. 国に依存しなくても生きていける道を考えること(服従しない)
7. 良書を読み、読解力を鍛える(チャットGPTに騙されないため)

【おまけ】
セックスピストルズのシド・ヴィシャスで思い出しました。彼は21歳の若さで薬物の過剰摂取で亡くなってしまいましたが、死の直前に1979年当時のイギリスの若者の苦悩を表現した傑作ミュージックビデオを作っていました。世界に衝撃を与えた「パンク・ロック」とはどういうものだったのか、象徴的なビデオだと思います。彼はビデオの中で「納得できないこともあったけれど」「心残りも少しはある」と歌っています。「納得できないこと」に抗って懸命に生きていたことが伝わっていただけに、志の途中で命を終えてしまったのは勿体ないような気がします。

■ MYWAY / SidVicious / 日本語訳詞

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