見出し画像

同情と付き合う

可哀想だから付き合った。

初めての彼氏に言われた言葉が今も残っている。

7年の時を経て25才社会復帰、そして告白され彼が出来る。私は18才から引きこもり、7年後社会復帰した。厳密には愛犬と散歩をしたり、終わりの方はボランティアに参加させて貰ったりしていた。

彼には自分の病気の事を付き合いはじめに話した。あまり良く分かっていなかった気がするが、高卒で25才で働くのが初めてだから、何かはあるなと思ったよ。そう言ってくれていた。

私の事を認めてくれる彼が大好きになった。

私の事を好きで抱きしめてくれていたと思っていた。私は初めての恋で、もう夢中。彼の事が日に日に好きになった。大好きだった。本当に大好きだった。

私が出来る範囲の愛し方で彼が幸せにと。私の事を好きになってくれる人が出来るなんて夢にも思っていなかったから。ずっと好きでいて欲しくて。色々な事に挑戦した。

一年半経った時、ふとなんで私に告白したの?と聞いた。

なんか可哀想だったから

衝撃だった。私は私のプライドが崩れる音を聞いた。

そうか、私は可哀想だから愛してあげた方が良く見えたのか。私の何かが光輝いて、何か彼には輝いて見えて私自身が好きなのかと思って過ごしてきた。

輝いていたのは、可哀想。それは、私が私に勝つため頑張って生きてる事への侮辱だった。可哀想かもしれない、けれどそれに打ち勝つため私は必死に生きていた。それは可哀想なのか。

それから、彼とは会う事が辛くなりそして男性とお付き合いする恐怖が私に埋め込まれた。

それでも、男性に愛されたい欲は残っている。

家族は生まれる前から私に与えられた宝物だから、私が見つけて私を見つけて愛し愛される相手が欲しいと今も思っている。

私は同情される環境になってしまったのかもしれない。でも、負けない為に戦っているから、応援して欲しかった。頑張ってる私が生きている私が負けない小さな私を見つけてくれたのかと思っていた。ただ悲しかった。

頑張ってる人は輝いてる。彼は輝いていた。しかし、私への愛でなく、可哀想への愛だったけれど、今の私ならそれも含めて彼を抱きしめられる筈だから、だから前を向いて歩く。

私の器は確実に大きくなってるから大丈夫大丈夫。恐れず人を愛そう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?