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僕が好きだった2人の女の子

オタクというものは異性の非実在キャラクターに執着を抱くものということが、一昔前まではよく言われてました。「俺の嫁」とか、そんな言葉が流行っていた頃です。

で、自分がどうだったかなーということを考えると、まあ毎クールごとに「この子可愛いなー」と思うことはあれど、本気で「好きだ、この子を幸せにしたい」と思うようなキャラクターは2人しかいなかった気がします。

その女の子とは、まず一人目は『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレー

であり、二人目は、『ヨイコノミライ』の平松かの子です。

アスカについて

アスカについて言う前に一言言っておくと、僕が好きだったアスカはあくまでTV版・旧劇の方のアスカで、新劇場版のアスカの方には一ミリたりとも興味は沸きません。

で、TV版・旧劇のアスカについてなんですが、なんで僕がこの子に好きかというと、徹底してオタク的な存在に媚びないことなんですね。彼女は男性オタクが面倒くさがるような女性性に溢れたキャラクターで、ヒステリックで強気、ちょっと思わせぶりな態度をしたかと思えばすぐそっぽ向き、そして決して他人の思い通りにはならない。

あんたなんかと一つになるのは死んでもイヤ」、「気持ち悪い」と、オタクが、自分でも自分のことをそう思ってるからこそ、他人にもっとも言われたくない言葉をぶつけてくるわけです。

でも、なんつーか、だからこそ凡百のラブコメに出てくるような、何の魅力もない主人公を勝手に好きになるようなキャラクターより、自分の本質をきちんと見透かしているような気がするのです。

平松ちゃんについて

平松ちゃんは、もうとにかく現実と向き合うことができない女の子です。

常に厳しい現実と向き合うことができなくて、空想の世界に逃げ込み、そしてその空想を周りに押しつけてしまって更に孤立する。他人の心を思いやり、自分の非を認めることができない、そんなどうしようもない女の子です。

でも、僕からするとそれこそが人間のリアルなはずなんですよ。誰だってイヤなことからは逃げたいし、自分が思うがまま生きたい。そういう、人間の純粋な欲望を、他の人のように嘘や欺瞞で塗り固めず、素直に表現してしまう。でも、むしろその方が飾ってなくて素晴らしいじゃないかと、そう思ってしまうのです。

キャラクターの実在感について

両者のキャラクターに共通することって何かを考えてみると、どちらも、ある意味、それを消費するオタクには不快なところがあるんだけど、でもその不快さこそが、単なるキャラクター消費を超えて、本気でその子を好きになってしまう気持ちを引き出しているって所なんですね。

よく、AIとかを使って、リアルなコミュニケーションができる彼女を作り出せば、オタクはその子を好きになってくれるんじゃないかという試みがあります。実際、その様な考えから生み出されたゲームとかもあります。また、キズナアイの関係者から、最初キズナアイはそういう存在にしたかったという話も出たりしました。

でも、それらって結局、どこまでも「自分に都合の良い彼女が欲しい」という欲望から出発するが故、オタクの欲望にあまりにぴったりで、心地良いものなんですね。

「それの何が悪いの?」と言われるかもしれません。そういうものを求めるオタクもいるかもしれません。でも、少なくとも僕の場合は、そういう完璧に都合良くデザインされたキャラクターには、執着が湧いてこないのです。どこまでも、ただの作り物な気がしてしまって。

例えどんなにビッグデータや集合知を使って、「本物っぽいディティール」を作り上げたとしても、結局大元が「都合の良い彼女を作り上げたい」という欲望では、真に実在感があり、愛するに足るキャラクターは作れないと思うのです。

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