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リアリティーショーと「志村ーうしろうしろー」と老若男女が叫ぶ時代、ついでにラブドール問題

著名な俳優であるならば、ひどい悪役を演じても、それはいくつもある仮面の一つであると自他ともに認めることができる。しかし無名の新人俳優はそうはいかない。番組内で割り当てられたキャラはフェイクでも、それは仮面のようには簡単に取り外せない。キャラは彼や彼女の日常にもついて回る。

加えて、番組内で表出された感情は必ずしもフェイクではないので、キャラと自分の切り替えが次第に困難になる。感情のやりとりで流す血は、俳優のそれは血糊だが、ショーの出演者の流す血は限りなく本物に近い。私が現代の剣闘士試合を連想したのはこのためである。
報道されたショーの犠牲者(あえてこの表現を用いる)の多くが、演じたキャラへの批判を苦にしての自殺だったのも無理もない。俳優としては発展途上である上に、あえてキャラと自身の区別がつきにくくなるような演出を強いられれば、SNS上に殺到する批判が「リアルな自分」を殺そうとしていると感じたとしても不思議はない。人格や感情のリアリティーを売り物にすれば、ある程度予測された帰結ではある。

リアリティーショーのなかの虚構のキャラが、現実の自分と敢えて混同されるような演出こそが、今回の自殺の大きな構成要素であるということは同意するし、それがあたかも、剣闘士の殺し合いを楽しんだ古代ローマと重なるという点も、たしかにそうだなぁと思いました。

ただそこでちょっとさらに深く考えてみたいのですが、なんで人々はそういう虚構と現実を意図的に混同させ、そこで古代のコロシアムのように、人々を殺し合わせるようなエンターテイメントを、好むようのなったのかということなんです。

もちろん、今までだって、プロレスで悪役を演じたプロレスラーが、実際に日常生活でも悪いやつとして扱われるというようなことはありました。

徹底したヒールのキャラクターを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。

以前は実際に対面するときに接するだけだったこういうバッシングが、SNSの普及により全世界から浴びせられるようになった。もちろんこれは、過去と現在を隔てる大きな違いです。

ただ、それにしたって、上記の引用でもそのような混同をしたのは「幼い子供」だったわけだし、また更に言えば、このようなことが「ひどいこと」と認識される程度には、普通の人たちは現実と虚構の間に区別をつけていたわけですね。

「志村ーうしろうしろー」と老若男女が叫ぶ時代

「志村ーうしろうしろー」という有名な掛け声があります。先日亡くなった志村けん氏が、『8時だョ!全員集合』のコントでお化けが後ろにいて気づかない演技をしているときに、客席の子どもから掛けられた声のことらしいです。

ただ、僕は当時まだ生まれていないのでよくは知らないのですが、その掛け声を掛けていたのは子どもで、大人はそんな掛け声はしていなかったし、また後年成長した子どもも、「あれおかしな掛け声だよな。志村は本当はお化けが知ってるんだから」と、あとになって理解したわけです。

つまり、このころは「現実」と「虚構」は混同されてなかった、というか、混同するような楽しみ方はしてなかったんですね。

では、一体どこで人々は現実と虚構の区別をつけていたか、それは端的に言えば、「プロが作る舞台」と「ただ見ることしかできないお茶の間のテレビ」ということでした。8時だョ!全員集合においては、テレビ番組とはまさしくプロのコメディアンとスタッフが作る演劇であり、そこでは普段志村けんやいかりや長介がどういう私生活を送っているか、またその番組を作るスタッフはどのような人々かということは、ほとんど表現されませんでした。

しかし、このような8時だョ!全員集合のアンチテーゼとして現れた80年代のフジテレビは、そのような「プロが作る舞台」と「ただ見ることしかできないお茶の間のテレビ」の壁を意図的に壊し、そしてそれがまさしく現代のバラエティの雛形となるわけです。具体的に言えば、8時だョ!全員集合の裏番組として登場した『オレたちひょうきん族』は、出演者やスタッフの私生活を積極的にネタにしました。そこでは「プロのコメディアンやスタッフ」と「お茶の間の人間」の間に特別な違いなんかない。なんならお茶の間の人間だって東京でテレビ局とかに就職すれば簡単に作り手側になれるんだぞという誘いを送ってくるわけです。

そして、そのような内輪ノリによって8時だョ!全員集合を終了に追い込んだオレたちひょうきん族も、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」という、よりによって志村けんと加藤茶の番組によって終了に追い込まれるわけですが、そこでは更に「ホームビデオ」をテレビで放映するというようなことが行われるようになりました。今でいうインターネットでバズったバイラル動画をまとめたテレビ番組の走りです。そこではもはや、「プロでなくたって面白い動画を撮れば俺たちに並べちゃうんだぜ」とされ、「プロが作る舞台」と「ただ見ることしかできないお茶の間のテレビ」という2つを隔てる壁はほぼないものとなってしまうのです。

そして現在、もはやプロが丁寧に作り込んだテレビ番組より、そこらへんの素人の人がだべってるYoutube動画の方がよっぽど多くの人に見られる時代、もはや「プロが作る舞台」と「ただ見ることしかできないお茶の間のテレビ」という壁は存在しません。あるのは「どの機械で見ることができるか」程度の違いでしかないのです(ちなみに我が家では、ChromecastやFiretvを使ってるので、機械の違いすらない状態です)。

(ちなみに、ここまでのバラエティ史は、ほぼ大田省一氏や北田暁大氏、松谷創一郎氏のパクリですので、本当にきちんとここらへん勉強したい人は↓の本や記事を読んでください)

現実と虚構は影響しあってる

で、こういうバラエティに代表されるような80年代からの変化で、人々の精神構造がどのように変わってきたかといえば、それは端的に言えば、「現実と虚構は全く別のもの」という認識から、「現実と虚構は影響しあってるもの」という認識への変化です。

かつて虚構は、人々がそうなりたい、あるいはそうなりたくないと願うものでした。現実はそこに向かって近づくこともできるし、遠ざかることもできるかもしれない(できないかもしれない)、いずれにせよ、虚構はそれ自体は揺るがないものなのです。

ところが、情報技術の進歩により虚構の作り手と受け手の距離が縮まったのが原因か、あるいはその距離を縮めたいと思ったからこそそういう情報技術が進歩したのかは分かりませんが(そこらへんのことを深く考えたい人は

でもどうぞ)、とにかく虚構の作り手と受け手の距離が縮まる中で、現実も虚構に大きく影響をするということがバレてしまうわけです。そしてさらに、虚構の作り手も、時にその虚構を用いて現実に影響を及ぼそうとするわけです。

アメリカのエンターテイメント業界なんかは明確に「人々の避難場所としてのフィクション」から「人々を啓発するフィクション」へと自らの位置づけを変えているわけですが、これこそまさに、「現実にいる虚構の受け手が虚構の作り手にそのような作品を要求する」という事例であり、「虚構の作り手が現実に影響を与えようとする事例」事例といえるでしょう。

もちろん、そのような動きへの反作用として、現実と虚構を分離して考えようという動きもあります。しかしそれもまた逆説的に、現実と虚構が分かち難いからこそ、敢えてそこに線をひこうとする動きなわけで、結局は同じ認識の上での、戦略の違いでしかないのです。

そして、そのような観点から考えると、「リアリティーショーの虚構性を強調する」という斎藤環氏の処方箋は、重要かもしれないが、しかしそれだけでは機能しないのではないかと、思わずにはいられないのです。

なぜなら、たとえいくら「虚構」であることを強調したとしても、それだけではもはや「だから現実とは切り離して考えてね」というメッセージになりえないからです。それこそ極端な例えをすれば、「たとえフィクションだとしても、フィクションでそういう行動を演じたということは、そういう行動をすることを肯定的に描き、奨励してるんじゃないんですか」という批判が起こりうるのが、いまの時代なのです。

必要なのは、虚構と現実が影響し合うことを認めた上で、ではどういう付き合いをすべきか提示すること

ではどうすればいいか。

まずは、例えそれが虚構であるとしても、それは常に現実に影響を与えるということを認めた上で、では、どういう形で影響を与えたいか、どういう戦略で虚構と現実の相互作用を起こしたいのかに、より自覚的になり、それを明示することだと思います。

それは、必ずしも「叩かれない無難な表現をする」ということではありません。むしろ、確信犯として危うい表現をして現実に波風を立てるということだって可能です。しかしそれはあくまで、「そういう表現をすれば波風が立つな」という自覚をし、「そういう波風にどう対処するか」という戦略を持った上でなされるべきです。

今回のリアリティーショーでいえば、リアリティーショーの問題は、リアリティーショーが虚構であることを認識していないことそれ自体ではなく、現実と影響し合う虚構である場合当然建てられるべき、自覚や戦略が作り手と受け手双方になかったことなのです(もちろん、その場合、プロのスタッフである作り手側より責があることは言うまでもない)。

その点で言えば、例えば宥め役だった徳井氏の不在が問題だったという指摘も結構重要なのではないかと僕は考えます。

「そういうテクニカルな問題なのか?」と思う方もいるかも知れませんが、重要なのはむしろこういう細部のテクニカルな部分なのではないかと僕は考えるのです。

ついでにラブドール問題

ついでに、現実と虚構の境目問題としてもう一つ話題になっているラブドール問題についても一言。

女性をモノ化したり、小児性愛を助長するとして、一部のフェミニストからラブドールが批判され、それに対し表現の自由を重視する人たちから擁護されているという状況なわけですが、僕からすると、擁護派・批判派双方、自らの主張を目立つ形で提示しようとするが故に、現実とかけ離れた極論を述べ、それにより対立が激化しているように思えます。

ラブドール批判派は、ラブドールを愛好することで、人々が性差別や性犯罪をするようになると主張し、一方でラブドール擁護派は、ラブドールを愛好することと、現実の性差別・性犯罪には関係は一切ないと主張しています。

しかし実際は、そんな単純にラブドールを愛好することで性差別や性犯罪に走るなんて単純な因果はないでしょう。またその一方で、関係が一切ないということもいえないわけです。ラブドールを愛好することで、そういうラブドールの愛し方が普通の人間にも適用できると思うこともあるかもしれませんし、またその反対に、ラブドールで欲望を発散することで、現実には性差別・性犯罪を侵さないということもあるかもしれない。

ここで重要なのは、ラブドールを愛好することと現実での態度に絵関係があるということを認めた上で、ではどういう関係を結ぶべきなのか、その戦略を提示し、相手を説得しようとすることです。

例えば、ラブドールを擁護する人の中でも、性差別やセクシャル・ハラスメントを擁護する人は殆どいないでしょう。しかし実際は、下記の記事にあるように、ラブドールを性差別やセクシャル・ハラスメントに利用しようとする連中もいるわけです。

彼女を「火あぶりにしろ」と発言する者もいれば、トゥーンベリに似たセックスドール(ダッチワイフ)の「セリフ付き」画像をばらまく者もいる。どうやら録音した彼女の声を使って人形にしゃべらせているらしい。

ラブドールを擁護しようとするなら、むしろこういうラブドールを悪用しようとする輩をきちんと攻撃したほうがいいのではないでしょうか。それによって、ラブドールを愛好することで、性差別やセクシャル・ハラスメントを容認するなんてことはあってはならないと主張することができるのですから。

ラブドールを批判する側も、「小児性愛とか可虐的な性愛はラブドールで助長するのではなくきちんと治療しろ」と言うなら、そういう治療機関を支援したり、あるいは性犯罪者がよりきちんとそういう治療を受けれられるような体制を作ることに力を注いだほうがずっといいと思います。それこそ今僕が「こういう異常な性愛を抱いてて苦しい。治療したい」と思ったら、即相談先がわかるぐらいには。

また、薬物依存では「刑罰か治療か」というように、厳罰化ではなく治療こそが依存から脱することにつながるということが言われているわけですが、一部のフェミニストは、一方では性犯罪の厳罰化を望みながら、他方で治療も望んでいて、そこも正直ネット受けする言説ばっか追い求めて戦略が後回しになってる気がしてなりません。

ただ、そもそも極論がより受けるネット上の議論で、なにか有意義な議論をすること自体が、無理なのかもしれないので、結論は「Twitterを閉じろ、本を読め」ということに尽きるのかもしれません。

Twitterを閉じろ、本を読め

「現実と虚構を混同するなっていうけど、そもそも虚構って何さ」ということをずっと悩んでたのが、僕の学生時代だったわけですが、そんな僕に重要な気づきを与えたのがこれらの大澤氏の本でした。

今回の記事ではあんま触れられなかった「キャラ」という問題については、ここらへん読んで改めて考えてみたいね。

ラブドール問題にしろ、ここらへんの「欲望をいかに治療するか」という問題は、結構(医療がどこまで介入していいのかという点も含めて)気になってる。

性犯罪に限らず、日本の刑罰は基本的に「悪いことしたから罰してやろう」一辺倒で、再犯防止が重要と口では言うけどこういう、再犯しないための支援がないというのは、結局再犯によって被害者を増やすことにもなることを含め、ほんとだめだなぁと思うよ。

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