フロイト、ラカンの精神分析に基づいたメンタル維持のための試論

 人は父親的存在からの寵愛及び承認という形でしか自身を保つことができない。言い換えると、どうやら人間は、何らかの他者Autreの承認がないと、自身の存在を認めることができないという性質があるらしい。
 これは『饗宴』でソクラテスに対して愛されようとするアルキビデアスと類比的である。アルキビデアスはアガトンの寵愛を受けるという欲望のための手段としてソクラテスの寵愛を受けるというアガルマを望んだが、これと同じく、人は自分自身の存在を確保するという欲望のための手段として父親の寵愛を受けるというアガルマを望む。
 父親からの承認とは自身の主体の統一性を担保する父の名からの承認にほかならない。人は、母親との近親相姦を妨害する父親へのアンビヴァレンツにおいて父親に迎合しようとする。愛と憧れをもって父親と同一化し(父性隠喩)超自我を獲得した人間は安定した存在を獲得し、そんな自身に存在を与えてくれる父親的存在、すなわち他者Autreからの承認を受けることに躍起になる(例えばそれがSNSなどによる承認欲求へと結びついていく)。
 しかし具体的な父親の性格に何らかの難があると、その承認の難易度が上がってしまう。それこそ例えば、少しでも父親の意に介さない場合に恫喝などの過度な罰を受けることが常態化していると、完璧主義などといった承認のためのコミットのリソースの負担が大きくなり、最終的には行き過ぎた神経症を患うこととなる。
 この問題には対処法がある。
 それは、父の名(=他者=法=超自我)を自分に固有の父親から離反し、穏当なものに再解釈することであり、その新たな他者を通して自己を愛することができる新たな方途を開拓することである。
 何らかのメンタル疾患を抱える人々には様々な容態があるが、一部の人々においては、超自我が歪んだ父親によって形成されているため道徳的マゾヒズムの享楽へと簡単に転落してしまうような危うい状態を持っている。人間には死の欲動があり、原マゾヒズムがある。これは日常においてエロスと結びついて発散されており、時にそれは道徳的マゾヒズムとして超自我の下自己破壊に向かっていくのである(「マゾヒズムの経済論的問題」)。そしてその自己破壊を担う超自我の形成は父親との同一化によって行われている。
 したがって、同一化対象である父親を現実に存在している父親の様態から引き離し、新しい形へと解釈し直す治療を行うことが必要だ。
 具体的な方針は3つある。「歪んだ父の名の審級や懲罰体制を見直す」、「父親的存在への過度な依存を避ける」、「自身の存在を外へのサディズムによって担保し死の欲動を超自我と結びつけないようにする」、といったものである。

歪んだ父の名の審級や懲罰体制を見直す

 まず自身の心的現実としての父親像がどういったものかを分析する。そしてそれがどういった点でどのように異常なのか、そしてそれが自身の精神にどういった余波を生んでいるのかを分析する。この流れを言語化していくことがそのまま自由連想法の要領で固着したトラウマの解消へとつながっていく。
 また認知心理行動療法の要領で毎日その日の心理状況を先に分析した他者のあり方と照らし合わせ、修正すべきポイントをその都度言語化して記録していく。この積み重ねによって他者の解釈をもともとの父親から引き離し、少しずつ再解釈していくことが可能になっていく。

父親的存在への過度な依存を避ける

 父親に愛されたい、承認されたいという無意識の欲望を意識の段階で語り、イメージし、これを別の方向に向けかえることが重要だ。もちろん個別な父親に飽き足らず、父親的な対象を念頭に置き、これに愛される無意識の欲望及びそれに裏打ちされた行為というのが自分の中にどのようにあるのかを追っていく。そうすると執拗に固執していた自分の側面が明らかになっていく。
 なぜ父親に、上司に、先輩に失望されたくないと思うのか。なぜならそこに父の名の影を見るからである。言い換えれば、エディプスコンプレックスの克服時に自身が父親を同一化した際に伴っていた無意識のあこがれ、愛というものが不自然な形で今でも存在しており、それが現在まで記憶領域に固着し続け、欲望を形成しているからである。しかし語ってしまえば、その欲望の固着は流れ去っていく。これを念頭に置き続けることが重要だ。父親に愛されたい欲望があるから超自我に翻弄されることとなり、結果道徳的マゾヒズムに苛まれることとなる。もともとのリビドーが備給される欲望さえ自覚してしまえば、超自我はその力を失うはずである。

自身の存在を外へのサディズムによって担保し死の欲動を超自我と結びつけないようにする

 死の欲動と結びついたリビドーをサディズムとして外に開放していくという手段がある。一定の攻撃性、暴力というものは自己を担保するために必要だ。これは自身の存在を担保していくために若干のマイクロアグレッションを外に加えるという話と結びついており、自身の領域を保つためには外への攻撃性をある程度担保する必要がある。とはいっても、これはむやみな攻撃性を他人にぶつけることを推奨しているわけではない。あくまで自身の領域を確保できるだけの暴力を担保するという微妙さが必要である。
 これは父親への愛の離反と同時進行で進めなければならない。迎合への離反がなければ攻撃性はあり得ないからだ。
 また逆に、サディズムとして死の欲動を発散することを常態化しておくことで、超自我への死の欲動の備給を防ぐという効果も存在する。

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