人生そんなに苦くない
生まれてくる子供の名前を
「麦」と名付けるのはどうか
お腹の中の子が安定期に入った頃
なおちゃんがそう提案した
なおちゃんは僕の奥さんで、大のビール好きだ
彼女の部屋に初めて泊まった朝のこと
朝食をこしらえてもらっている際に
ちらりと冷蔵庫の中身が目に入った
瓶詰めの鮭フレークと半分にカットされた大根
3連パックの納豆
食品と呼べるものはそれくらいで
残りのスペースにはびっしりと
色取り取りのクラフトビールが鎮座していた
それはよく晴れた夏の朝で
鮭フレークを混ぜ込んだ焼きおにぎりを頬張り
大根の味噌汁を啜りながら
これから先この人とずっと一緒にいたいと
明確に思った
若い時分
僕はありとあらゆる物事を
中途半端で投げ出してきたので
ありとあらゆる大人たちに
人生そんなに甘くないよとよく言われた
けれども、と僕は思う
あの日のように晴れた日のベランダで
さわやかなホップの苦味が効いたビールを
なおちゃんと飲み
戯ける娘の姿を眺めながらこう思うのだ
人生そんなに苦くない
※食楽 2022年夏号 寄稿
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