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三好為三周辺の人物についての検討

1.三好為三

 私の小説『河内の国飯盛山追想記』の主人公三好為三は、真田十勇士の三好清海・伊三入道兄弟のモデルになったとされる人物である。従来、実在の人物である本人の名は法名の為三で呼ばれてきた。諱については、政勝であろうとされてきた名は実兄である宗渭の諱である、とするのが最近の研究では、ほぼ異論の無いところかと思われる。為三の名前については、法名が為三、号が一任斎、諱は不明とするものが多かったと思われる。織田信長、足利義昭、千利休などの書状に宛名を一任斎としたものがあるが、織田信長がその後発給した文書では為三の表記となり、関ヶ原の戦いの頃に徳川家から出された文書でも為三とされている。

 三好為三は江戸幕府の旗本となり、家名が存続したため、寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜に三好家の記載がある。三好為三については、従五位下因幡守、諱が一任(まさとう)、法名が為三、通称の記載なし、となっている。しかし、これらの記述は江戸時代に編纂されたものであるため、一次資料ではないこと等が理由となり、学術研究者には重視されてこなかった。三好為三についての考察がある論文が幾つかあるものの、ほぼ根拠となる史料が示されることもなく推測を述べることに終始しているのが現状と言ってよい。しかしながら三好為三は、徳川三代将軍家光の時代である寛永年間まで現役の旗本であり、従五位下因幡守に任ぜられたのは江戸幕府成立後であるため、ある程度詳しい記録が残っている。日本史を研究する際の基本史料集である大日本史料にも、史料が記載されている。

大日本史料12編2冊320頁慶長9年6月22日2条「堀尾可晴ヲ従四位下ニ叙シ、遠藤慶隆、分部光信、松平忠利等十数人ヲ従五位下ニ叙ス」

 この項目に挙げられる「十数人」分の史料の中に、三好為三と三好房一の叙任記録が記述されている。

〔續武家補任〕十二 西尾源教次 慶長九年六月二十二日、信濃守従五位下〇寛政重修諸家譜、略譜等ニハ、本條ノ事見エズ、

三好源一任、為三、慶長九年六月二十二日、従五位下因幡守

〔寛政重修諸家譜〕百九十九 三好一任(まさたふ) 慶長九年、従五位下因幡守に叙任し、〇下略

〔續武家補任〕十二 三好源房一、新右衛門、慶長九年六月二十二日、丹後守従五位下、〇寛政重修諸家譜、略譜等ニハ、本條ノ事見エズ、

東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースの該当ページ(p323)

 刊行済みの大日本史料に記載されている史料がある以上、それについて言及も検討もなされていない従来の文献は、参考にすることが出来ない。

 『続武家補任』については、国立公文書館が所蔵している内閣文庫の中に昌平坂学問所旧蔵の『続撰武家補任』がある。
 国立公文書館デジタルアーカイブの続撰武家補任12の先頭。該当箇所は91/104の部分。

 江戸幕府による大名旗本の補任に際しては本人確認がなされるため、本人以外の事についての追記部分はともかく、本人の事項に関する限り、従来論文等で述べられてきた史料的裏付けが乏しい推測よりは、ひとまず補任の古記録にある記述を信ずる方が妥当な選択かと思われる。

 ちなみに、三好為三の領地については、孫の勝任(後に長富)の跡目相続となっているので、為三は最期の時まで現役の旗本であった。ご隠居さんのような「一任斎」を名乗る理由は無い。三好為三入道の名前は、三好一任、従五位下因幡守、法名為三、とするのが妥当であろう。

2.三好政長(宗三)

 三好為三の父は、宗三の法名で知られる三好政長である。この三好宗三、菩提寺の名を堺の善長寺といい、後世の記録では名前が三好善長と書かれている。名前の変遷について、通称について法名を名乗るまでは史料がはっきりしているが、その後、諱が政長から善長に変わったのかどうかは、古文書の上では不明である。しかしながら、現存する寺院の名前が政長寺ではなく善長寺ということから、法名を名乗った後に諱を変えたものと推測しておくより仕方がない状況と言える。

 三好政長が通称の神五郎から、半隠軒と号し法名の宗三で呼ばれるようになったのがいつなのかは、記録からある程度特定することが出来る。『言継卿記』天文十一年三月十八日の記述に「三好神五郎方へ遊佐又五郎以下九取之」とあり、

天文11年3月の太平寺の合戦時には、まだ三好神五郎と呼ばれていたことが分かる。翌月の4月になると、蜷川親俊の『親俊日記』天文十一年四月廿日の記述に「一 丹波宇津城波多野三好甚五郎入道半隠軒宗三雖責寄之一向不成候今日開陣云々」、

『大館常興日記』天文十一年五月七日の記述に「一 鳥子百枚半隠軒より被献之」、

とあることから、木沢長政の乱が終わってから間もない、天文11年3月から4月にかけての間に、宗三と呼ばれ始めたことが分かる。後世の記述には三好宗三について摂津守や越前守と書いてあるものがあるが、実際には神五郎改め何々の守と名乗る余裕もなく、法名の宗三を名乗ることになってしまったようである。更に、木沢長政は三好神五郎を幕府に訴えていたのだが、騒ぎの原因が三好神五郎である点については認められていたことが、大館常興日記や親俊日記の記述にある。この辺のいきさつは本の中に書いておいたが、避難先から京都に帰ってきた将軍足利義晴に、新しい御所の新築祝いとして各地の守護が太刀を献上するのに混じって、細川京兆家御前衆とはいえ陪臣である宗三が金額的に同程度となる百枚の鳥子紙を献上しているのは、詫びの品を献上させられたとみるのが妥当であろう。(国立歴史民俗博物館「データベースれきはく」古代・中世都市生活史(物価)データベースの検索結果では、文明14(1482)年鳥子紙二枚が銭10文(100枚で500文)、永正12(1515)年に金履輪太刀が銭800文)。
 ちなみに、本願寺証如の天文日記で天文十二年八月五日の記述が「去六月下旬於河縁、三好神五郎衆與寺内衆喧嘩有之。」、九日の記述が「三好半隠軒へ、就先度諠譁事、」となっているので、本願寺が三好神五郎から半隠軒宗三になったことを認識したのは、天文12年になってからのようである。

 太刀という言葉が出たついでに、三好宗三にまつわる有名な刀、宗三左文字について検討しておきたい。宗三左文字は、『享保名物帖』など刀剣関係の文献では昔から、三好宗三が甲斐の武田信虎に贈った後、信虎の娘が駿河の今川家に輿入れする際の引出物として今川義元に贈られ、桶狭間の合戦で義元を討ち取った織田信長が分捕りにしたとされてきた。刀剣研究の大家である福永酔剣氏の『日本刀大百科事典』にある義元左文字の項には、三好宗三から武田信虎へ贈られた経緯が次のようにまとめられている。
「これを甲州の武田信虎に贈ったのは、大永七年(1527)二月、武田家の分家にあたる若狭の守護、武田元光を、城州山崎に破ったことがある。あるいはその時、信虎が元光方につかないための工作に、これを贈ったのかもしれない。
 天文六年(1537)二月、信虎の長女が今川義元に輿入れした時、婿引き出として義元に贈った。」
 三好宗三が若狭武田氏を破ったというのは、堺公方勢力の先遣隊と細川高国派の激突である、桂川原の合戦のことである。負けた細川高国勢の大潰走については、言継卿記にも大永七年二月十三日以下の記述がある。

 私は作中で、これらの記述をもとに、後述の理由も考慮して宗三左文字の話を展開した。
 最近、刀剣ブームの影響で誰かから書くように頼まれたのか何なのか、信玄によって甲斐から追放された武田信虎が上洛した時に三好宗三が信虎に誼を通じるために贈った、とする歴史学者の説を見ることがある。しかし、天文年間の中頃に、三好宗三が、追放された武田信虎に一体何の用があったのか、詳しい理由がはっきり書かれているとは言えず、推測が述べられているにとどまる。信虎は天文10年に追放され、天文12年に京畿を遊歴したとされるが、今川義元に娘婿への贈り物として左文字を贈る必要が今更どこにあったというのだろうか。
 史料的な裏付けを求めるなら、学術研究者であれば一通り目を通しているはずの『史料綜覧』、その大永7年4月27日4条の綱文は、「義晴、甲斐守護武田信虎の音問を謝し、且、忠節を勵ましむ、尋で、義晴、上野上杉憲寛、信濃諏訪社大祝諏訪高家、木曽義元をして、信虎に合力せしむ」となっていて、明治時代の草稿『史料稿本』では「是ヨリ先、武田信虎、将軍近江ニ遁ルト聞キ、使ヲ遣シテ力ヲ効サント請フ。是ニ至リ、其上京ヲ促カス。尋テ上杉氏及ヒ諏訪大祝ニ命シテ、信虎ト協力セシム」とあり、史料として「室町家御内書案」が挙げられている。以上のことから、桂川原の合戦後に武田信虎が上洛しようとする動きがあったことが分かる。甲斐の武田信虎が若狭武田家を支援し足利義晴を擁して細川高国側につけば、足利義維を擁する堺公方府にとっては、面倒極まりない事態となる。結局、信虎が上洛することはなかったが、阿波の三好が甲斐の武田に関わりを持つとするなら、この時が最大の危機だったであろう。武田家や今川家で三好左文字と呼ばれていたという宗三左文字が、武田家へ贈られたことについて、これ以上の理由を挙げられるであろうか。
 もともと、刀剣に関する研究は、歴史学において文献学の分野ではあまり研究が進んでこなかったのではないかと思われる。徳川八代将軍吉宗の命により享保名物帖が編まれるなど、刀剣類の来歴等については昔から記録が行われてきたが、大昔の売買や贈答の受領書などの一次史料があるものでもなく、戦場での分捕りで持主が変わることが珍しくも無いため、多分に伝承に頼らざるを得ない事情がある。現在では明治時代の廃刀令以降、特に戦後は刀剣が兵器とみなされ、GHQによる日本軍の武装解除やその後の銃刀法によって、登録を受けた刀剣がいわゆる「美術刀剣」として「例外的に」所持を認められる状況になっていて、刀剣類は書画骨董のジャンルに入る扱いである。そうした背景もあるため、刀剣類の研究は、国宝や重要文化財クラスの物は博物館や美術館の研究員、その他は愛好家の大家によって行われてきた部分が大きい。更に、室町時代から公義御用を務めてきた本阿弥家などによって、複雑な事情の下に骨董品としての値打ちが付けられてきたという、古美術品の世界の話である。世間の話題になっているからといって急に始めてみても、歴史学での学術的な研究がそう簡単に進むとも思えないのだが、どうだろうか。

3.三好越後守

 文明~永正年間に三好一族の長であった三好之長の弟であり、三好宗三政長の父親で、三好宗渭・為三にとっては祖父にあたる「三好越後守」も、名前が混乱している感がある人物である。軍記類では「勝時」とされることが多く、大日本史料などでは「長尚」と書かれているので、史料集や学術研究書では「長尚」とされている。長尚とされる根拠として挙げられているのが、次の文書である。
 東京大学史料編纂所のデータベース「日本古文書ユニオンカタログ」の検索結果は次の通り。
【和暦年月日】大永年間頃 【文書名】三好越後守長尚書状封紙【底本】写真帳 宝珠院文書 【差出】〈三好越後守〉長尚[ウハ書]

他に検索でヒットするのが次の文書類である。
【和暦年月日】(大永年間頃)3月2日 【文書名】長尚書状【底本】写真帳 宝珠院文書 【差出】長尚(花押)

【和暦年月日】(室町後期)卯月18日 【文書名】三好長尚折紙【底本】写真帳 護国寺文書 【差出】〈三好越後入道〉長尚(花押)

 今一つ年月がはっきりしない文書類で、データベースの検索結果だけでは、原本のままなのか筆写物なのか、後から誰かが書き加えた部分があるのか無いのかは不明である。なぜここで疑問を抱くのかというと、三好之長の弟である越後守なら、元服したのは文明年間の頃になると思われるが、足利将軍は義尚の時期である。その頃活動していた人物ならば、将軍から偏諱を受けた人物以外は尚の字を付けることを避けるはずで、更に偏諱を受けた人物ならば『大館常興日記』で知られる大館尚氏のように、尚の字は名前の上に来るはずである。足利義尚と活動期が重なる越後守が長尚と名乗ることは無いとみるのが自然であろう。こうしたことは、三好越後守の父である三好式部少輔についても言える。三好式部少輔は「長之」と書かれることが多く、「或いは長行」とされたりするのだが、阿波の守護細川成之の被官である式部少輔が之の字を下にもってくるとは考えにくいので、「長行」とする方が自然であろう。
 名前の文字についてもう一つ付け加えると、三好越後守の子や孫の代の名前を見てみると、家督を継いだ者の名前に「勝」の字が出てくる。まず三好越後守の跡を継いだのは宗三政長、その家督を継いだのが後の三好宗渭、初名は政勝。宗渭の跡職を弟の為三が養子に入る形で継ぐ。為三の長男可正は徳川家康から別に領地を与えられ、幕府旗本三好越後守となる。その長男長富が為三の遺領を継ぐが、初名は勝任。可正の領地は二男の勝正が継いだ。これらの例を見ると、三好越後守勝時という名前が、各時代の要所で子孫に受け継がれていったと考えられる。

 本願寺証如の天文日記にある天文九年六月十九日の記述に「今朝三好神五郎方就親越後死去事、為吊千疋以芝田遣之。」、廿日の記述に「自三好神五郎返事申候也。」とあるので、三好越後守は天文九年六月頃に死去したと考えられる。そこで、次の文書、
【和暦年月日】天文元年9月3日 【文書名】三好長尚書状【底本】写真帳 開口神社文書 【差出】長尚K(三好)

について考察してみると、この文書の日付では足利義尚の死後40年以上経っているので、長尚という人物がいても問題は無い。長尚と三好越後守が同時に存在しているので、同一人物であると言うことも出来るが、長尚という名のある文書が、もう一つある。
【和暦年月日】永禄5年7月13日 【文書名】三好氏奉行人連署奉書【底本】影写本 曼殊院文書 【差出】貞長K/長尚K

 これは三好越後守の死後20年以上経ったもので、足利義尚の死後70年以上経っているため長尚という人物がいても問題は無いと思われる。天文元年は永禄5年のちょうど30年前になるので、天文元年の長尚さんは永禄5年の長尚さんの若い頃という可能性もあり、他の文書も同様のことが言える。というよりも、大永から天文初期の老齢の人物に長尚という名前がついていることは考えにくいため、長尚というのは永禄5年の人物であるという可能性の方が高いとも言える。この「長尚」さんは三好であるとも書かれていないため、そもそも歴史上「三好長尚」という人物がいたのかどうか、文献に出てくる「三好越後守」と文書に書かれた「長尚」という人物は同一人物なのだろうか、という疑問が出てくる。三好越後守が長尚という名であるという根拠の、書状封紙の上書であるが、誰か他の人の物と紛れた、あるいは誰かが後から間違った文言を書き加えた、という可能性も考え得るのではないだろうか。「三好越後守長尚書状封紙」は、今一度現物を詳しく調べてみる必要があるのではないだろうか。史料名が付けられた当時暫定的に付けられた名前であるのか詳しく調べられた物なのか不明ではあるものの、今のところ、学術的には三好越後入道長尚という名の人物がいた、としておくべき問題かもしれない。しかし、勝時と書いてある他の文献があまりに多いため、小説などフィクションに登場させる際には、軍記の記述を基にして勝時としておく方が、昔の軍記物語から今の歴史小説まで、「物語」の登場人物として無難なように思われる。

 以上の理由から、三好之長の弟であり三好宗三の父である三好越後守については、今後とも小説の登場人物とする場合は「勝時」、学術的な問題を含む文章に書く時は「長尚」の表記を前提とした記述をする、という方針で文中に書き入れていこうかと思っている。

4.三好下野入道釣閑斎宗渭

 三好宗三の二人の子、三好宗渭と為三の兄弟は、真田十勇士の三好清海入道と三好伊三入道のモデルになったと言われている。兄の名が三好政康で弟の名が三好政勝であるとされてきたが、研究が進むにつれ一次史料に政康の名が出て来ず、兄宗渭は初め政勝と名乗り、後に政生(まさなり)と名乗ることが分かってきた。弟為三の名前については、上記の通り。

 三好宗渭について、従来の研究には、三好氏関連の系図類や『続応仁公記』の記述をもとに、三好之長の子である頼澄の子が政成・政康で、政康が後の釣閑斎宗渭であるとするものがあった。しかし今日では、頼澄が実在の人物であることが確認出来ず、また元亀2年7月20日三好為三宛足利義昭発給文書に「舎兄下野守跡職并自分當知行事」という記述があり、為三が実兄である下野守の跡を継ぐという内容になっていることから、三好宗渭と為三が実の兄弟で宗三の子であることが判明している。ちなみに、政生(まさなり)と名乗って政康と伝えられた人物が宗渭であることを念頭に政成・政康兄弟という人物名をよく見ると、同一人物のことを間違えて兄弟だとしてしまったと言うことも出来そうである。

 釣閑斎宗渭の名前の変遷を追ってみると、まず、本願寺証如の天文日記に、天文十三年五月一日「三好宗三へ、就新三郎結婚之儀、三種五荷遣之。」、九日「三好新三郎へ、就宗三隠居、樽遣之。」の記述があるので、初期の通称が新三郎ということが分かる。諱については、東京大学史料編纂所のデータベースで調べると、
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】(天文17年ヵ)3月7日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 松雲寺文書【差出】政勝(三好)(花押) 【史料群】1 兵庫県史 史料編中世 2松雲寺文書

の文書から、政勝であったことが分かる。
 三好長慶が三好宗三父子の誅伐を細川晴元に願い出た、天文17年8月12日の書状に「今度河州之儀も、最前請彼身可致粉骨旨深重ニ申談、木本ニ右衛門大夫令在陣、彼陣を引破、致自放火罷退候事、不顧外聞後難、拙身を可相果造意、於侍上者、言語道断働候。所詮宗三父子を被成御成敗、皆致出頭、世上静謐候様ニ、為江州可預御意見旨、摂丹年寄衆、以一味之儀、相心得可申之由候。」とあるように、その後通称が右衛門大夫に変わっている。
 三好右衛門大夫政勝が出した書状に、
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】天文19年閏5月10日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 大徳寺文書 【差出】(三好)政勝K

古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之七

があり、また、
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】天文19年閏5月10日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 大徳寺文書 【差出】政勝K

古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之一

の内容は宗三に関する御礼が書かれているので、右衛門大夫政勝は三好宗三の子であることが確認出来る。

 注意しなければならない問題は出てくるもので、宗渭の祖父である三好越後守の項目で指摘したように、ここでも古文書の原本を詳しく調査した方がよいと思われたり、筆写物が誤りを含んでいないか注意する必要があると思われるような事が起きる。
日本古文書ユニオンカタログ 【和暦年月日】(室町後期カ)7月28日 【文書名】三好政直政勝書状 【底本】影写本 大徳寺文書 【差出】三好右衛門大輔政直K

古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之七 (年未詳)七月廿八日

 文書名に三好政直政勝とあり、差出人が右衛門大輔政直になっている人物とは一体誰なのかと問うてみたくなる文書になっている。結論から言えば右衛門大夫政勝として問題無いと思われる。ここまで挙げてきた文書には、三好宗渭の特徴とされる「おしどりの花押」が描かれており、この文書にも名前が隠れる位置におしどりの花押がある。文書が筆写されることがあっても特徴的な花押であれば、後から誰かが意図的に花押を書き加えたものでもなければ、同一人物のものとみて間違いは無いであろう。

 右衛門大夫政勝となった宗渭は、江口の戦いで三好宗三が本家の三好長慶軍に討たれ榎並城が攻め落とされると、細川晴元の陣営に加わり丹波で活動するが、その間に名前を変えている。
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】弘治2年8月日 【文書名】三好政生禁制 【底本】影写本 本興寺文書 【差出】散位(三好)政生K【史料群】本興寺 No.1兵庫県史 史料編中世

 さらに官途が散位から下野守に変わる。
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】永禄1年6月9日 【文書名】細川晴元禁制 【底本】影写本 離宮八幡宮文書 【差出】下野守(三好政勝)K/越後守(香西元成)K【史料群】離宮八幡宮

日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】永禄元年6月9日 【文書名】細川晴元禁制 【底本】写真帳 離宮八幡宮文書 【差出】越後守(香西元成)(花押)/下野守(三好政勝)(花押)【史料群】1大山崎町史 2離宮八幡宮文書 3離宮八幡宮文書

 次の文書では、散位政生から下野守政生となったことが分かる。日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】(室町後期)5月6日 【文書名】三好政勝書状 【底本】影写本 金蓮寺文書 【差出】三好下野守政生(政勝)K

 三好下野守政生として三好長慶と和解し一族の元へ帰った宗渭は、その後三好長逸、石成友通とともに三好三人衆として三好家の重臣となる。長慶の死後、言継卿記永禄9年閏8月17日の部分に、山科言継が出した書状の写しが数件記載されているが、その中に宛先が「三好下野守殿」となっているものがある。言継卿記に三好下野が次に出てくるのは永禄9年11月11日だが、そこに三好三人衆発給の折紙があり、連署人が「三好下野入道 宗渭 判 石成主税助 友通 判 三好日向守 長逸 判」となっている。永禄9年閏8月17日から11月11日の間に、三好下野が下野守から下野入道に変わったことを山科言継が知ったことが分かる。ちなみに11月11日の文書は、三好長逸の「逸」に「やす」とフリガナが書かれていて、「長逸」が「ながやす」と読むことが判明する文書として知られている。言継卿記の本文に、翌年の永禄10年2月17日には「下野入道」と書かれているので、この頃には三好下野入道の名が一般的になっていたものと思われる。三好長慶の葬儀が河内真観寺で行われたのが永禄9年6月24日、三回忌が堺の南宗寺で行われたのが7月4日であるが、その後に入道名を名乗ったものと思われる。ここに至って、三好宗三政長の子の兄の方は、三好下野入道こと釣閑斎宗渭となった。三好新三郎右衛門大夫政勝散位政生下野守下野入道釣閑斎宗渭、全て一人の人物が名乗った名前である。その内の幾つかが別人のものだと間違えられたりしたのも無理は無いか。

 三好長慶の死後、13代将軍足利義輝殺害事件の永禄の変、三好三人衆と松永久秀の対立、三好氏が奉じる足利義栄の14代将軍就任、足利義昭を奉じた織田信長の上洛、義栄の死と義昭の15代将軍就任を経て、三好宗渭は永禄12年1月に本圀寺の変で重傷を負い、『二條宴乗記』永禄12年5月26日の部分にある「三好下野入道釣閑斎、当月三日ニ遠行由あわにて言語道断之事也。」という記述から、学術的には永禄12年5月3日に死んだと推定されている。
 しかし。小説家としては、ここで宗渭に死なれては困るのである。弟の為三は実際に江戸幕府の旗本になっているので仕方がないが、ロマン派の皆さんの期待に応えるためにも、兄の宗渭には「三好清海入道政康」となり、真田幸村(学術上は信繁)と共に大坂夏の陣で徳川家康に立ちはだかってもらいたいところである。『河内の国飯盛山追想記』ではやらなかったが、今後長編小説でも書く機会があれば、二條宴乗記の記述が「遠行由」、つまり「死んだらしい」という伝え聞いた話としての書き方になっているので、実は死ななかった、ということにでもして、永禄12年以降も架空の人物として是非活躍させてみたい人物である。

 最後にもう一つ、ややこしい話を検討しておきたい。この記事のヘッダー画像は、大阪府堺市にある善長寺門前に、堺市が大正年間に建てた石碑で、善長寺に三好宗三善長と為三政勝の墓があると記されている。近くには堺市による新しい案内板があり、寺伝が紹介されている。天文年間に宗三の菩提寺として三好政勝の寄進により善長寺が建てられたという。天文年間に宗三のため一寺を建立する人物としては、弟の為三よりも、家督を継いでいた宗渭とみるべきであろう。実際の名前も政勝だったので、三好政勝が善長寺を建てたという話の通りになる。弟の三好為三は、江戸幕府の旗本として江戸時代の寛永年間まで生き、江戸で死去して江戸の無量院に葬られ、そこが旗本三好家代々の菩提寺となった。堺の善長寺に、三好宗三と共に「政勝」が葬られているとすれば、宗渭であると考えられる。三好為三が、兄の宗渭を父宗三の菩提寺に葬ったのであれば、三好宗三、政勝、為三全員の名前が揃う。善長寺門前の石碑は、為三と思われてきた政勝を名乗っていた宗渭、と読み直してみれば、話が回り回って妥当なところに落ち着くことになるのではないだろうか。

自著『河内の国飯盛山追想記』紹介

 戦国時代の半分以上と江戸時代をしばらく生きた三好為三。戦国時代が終わった時、老将となった為三が三好長慶を頂点とする一族の盛衰に加えて、諸大名の攻防や天下人たちの移り変わりを交えて振り返った戦国全史。三好勝時から為三に至る、親兄弟の関係や名前の変遷は、上記の結論を基に記載。

河内の国飯盛山追想記
阿牧次郎 著 アメージング出版 刊 ¥1,518
ISBN-10 : 4910180745
ISBN-13 : 9784910180748

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