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「○○歳までに○○すべき」を無視する理由

今日は辛口。

何かの広告、ブログや書籍のタイトルで
「○○歳までに○○すべき」という表現をよく見かける。

私はこの手の情報はほぼ無視すると決めている。
理由はいくつかある。

ひとつは、それを主張する人がおそらく○○歳までに何かをやってよかった、と思ったから言っているとしても、あくまでその人にとっての○○歳だから。
その人と私には年齢、あとは性別ぐらいしか共通点はない。それ以外が全て違うのに、○○歳を基準に物事を語るのはほとんど意味がない。

もっと言えば、こういう表現をするときは、表現者が、自分が今幸福と思っていることへの承認が欲しかったり、確認作業をしたいから、そうだよね、と言ってくれる人を求めて、このような主張していたりする。それを受け取る人のためを思って、が最初ではない。

別のポイントもある。
例えば、ベビーブーム世代やベビーブームジュニア世代のように、同時期に生まれた人が多い世代を、マーケットがターゲットにしていることも多い。
70歳前後や40代後半だろうか。該当する年齢に当たる人が多ければ、メッセージをひとつ出したときに、年齢がきっかけで注意を向ける人数がそもそも多くなる。マーケティング的には正解だけど、もちろんそれが私という個人にとっての正解とは限らない。

名前が私と私以外を分けるしるしのひとつだが、年齢は誰もが持っているという点で、名前に続く自分のしるしのような意味を持ちやすい。でも、生年月日とも違って、実はずいぶん大雑把なしるしだと思う。

みんなが、80歳で、100歳で、命が終わるというプログラムがなされていたら、もっと年齢というしるしは意味を持つとは思う。でも、平均寿命はあるとはいえ、あくまでも平均。
命の終わりは10年20年、時にはそれ以上、人によって差があるのだ。いつかわからないその終わりの時まで、それぞれが今を生きるだけだ。

今世で使命を果たすという話になると、私はよくわからないけど、それぞれ今を生きる年月が異なる以上、肉体年齢、育った環境から受ける影響、元々の素質、全て違うのに、○○歳までに、ということをキャッチーに語るっておかしいと思ってしまうのだ。

例外があるとしたら、やりたいことが肉体年齢にかなり依存する場合。
スポーツで何かを目指す場合はそうだろう。 それでもそこの既存の常識を新しい常識に塗り替えるチャレンジャーはいる。

私がこの表現はいいかな、と思えるのは、「○○歳で○○した」とか、表現するほうもあくまでも自分語りをしていて、受け取る側も今の自分の中に可能性を感じられるときだ。これは生きる力が湧いてくるという点でいいと思うし、取り入れたければ取り入れたらいいと思う。

「○○歳までに○○すべき」に目をやるときって、これまでの自分に迷いが生じているときも多くて、むしろ脅しのようでかえって焦ったり萎縮してしまうのだ。

「○○歳なのに…」という表現にも、近いものはある。表現そのものが年齢に執着しているし、「なのに」という表現の奥には、普通出来ないけど、というネガティブなメッセージも含まれてるからだ。
その点、「○○歳で…」という表現は、受け取るほうにその意味が任せされているから、似ているようで結構違う。

最近私は自分に可能性を感じる心地よいものしか受け取らないと決めた。
情報の波にあっという間に巻き込まれて迷子になりそうな世の中では、そんなちょっとしたマイルール設定が大切だと思う。

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