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「ダサい」を許容する余白

今日はなんだかバタついていたので、過去に食べたとんかつの写真でも貼ろうかな。こういうのを論理の飛躍と言ったりする。

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目黒「とんかつ とんき」。座席がカウンター式でかなり広い。そこからキッチンのようすが見られるんだけど、人員過多で揚がっていく豚をただただ見守るだけの人がいたりした。

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五反田「あげ福」。とんかつは塩派なんだけど、ここの特製ジンジャーソースがうまい。確かとんかつ屋らしからぬ西洋の近代画っぽいものが飾られていて、不思議に思った覚えがある。

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目黒「とんかつ大宝」。ぶっきらぼうな店主(らしき人)が取り仕切っていて、いわゆる老舗という感じだった。味は最高。

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渋谷「かつ吉」。写真を撮ろうとしたら皿ごと飛び跳ねてどこかへ行ってしまった。


目黒界隈ってどうしてとんかつ屋が多いんだろうか。上で挙げた「とんき」「大宝」+「かつ壱」という店をまとめて目黒三大とんかつと呼ばれたりしていて、とんかつの聖地みたいなイメージがある。誰か知っていたらこっそり教えてください。

「かわいいはつくれる」というコピーが流行ったけど、「かっこいいはつくれる」んだろうか。

どちらもいろいろなタイプがあるし、さまざまな要素が複雑に絡み合っている概念だけど、「かわいい」に関していえば、ここを抑えればある程度万人にウケる、というようなポイントはある気がする。「幼さ」や「あどけなさ」みたいな本能的な感覚で、動物や赤ちゃんに抱く感想がそれに近いかもしれない。

ただ、「かっこいい」に同じようなものがあるかと言われると、どうなんだろう。得てして「かわいい」と「かっこいい」は対に置かれがちだけど、「かっこいい」はかなり主観寄りな表現だと思う。

「かっこいい」の基準は個人の趣向や浸っているコミュニティ、文化にかなり影響される部分があると思っている。ランウェイを闊歩するモデル、セミリタイアして海外移住した起業家、泥まみれになって笑いを取る芸人。それぞれに「かっこいい」を感じる人は一定数いるはずだ。けど、根底に共通して存在する「かっこいい」の“ツボ”みたいなものを抽出しようとすると、案外難しい気がする。

仮にそれがあるとすれば、「憧れの念」みたいなものだろうか。それこそかなり個人的な感情だ。とすれば、「かっこいい」をつくることは、「今からみなさんにはこちらに憧れていただきます」と言うようなもので、なんだか厚かましくも思える。

「かっこいい(憧れる)」ものが本当につくれるのなら、それが世に生み出され続けている状況はちょっと窮屈に感じる。「ダサい」を許容する余白があるくらいがちょうどよい。積極的に「ダサい」をつくりたい。



あ〜

スキをしてくれるとたまに韻を踏みます。