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この教訓はぼくが考えました

実に2ヶ月以上ぶりにnoteを更新する。5月ごろはコンスタントに書いていこうという気概があったはずなのに…。

書かなくなってしまった理由を内省したところ、自宅待機の生活が明けて社会的活動に体力と脳のキャパシティが持っていかれたところもありつつ、自分の文章の「おもしろくなさ」に若干辟易していたことに気づいた。

この「おもしろ」は、なにもユーモアに限った意味ではなくて、どちらかといえば思考の角度みたいなもの(そもそもそんな大それたことはもともと書いていないけど)を指しているところが大きい。誰でも考えているようなことをあえて書いても、と思うので。

あと、誰もお前の文章に期待なんかしちゃいないとも言われそうだが、たとえ自己満足だろうとそこにこだわりや上昇志向がなかったら終わりな気がするので、言わないどいてやってくれよという気持ち。

文章を書くことのおもしろさのひとつとして、自分でも認識していなかった脳みその中身が湧き出てくるということがあると思っている。キーボードを叩き始めることで、思考のスイッチを押す感覚。自分が日記と称する文章を書くときなんかは特にそうで、内容なんてまったく考えずにとりあえずその日に食べたお菓子の写真を貼りつけ、食べながら考えていたことを思い出しながら芋づる式に言葉をつなげていくパターンがかなり多い。そうして書かれた文章は、決して嘘ではないし紛れもなく自分から出てきた文章ではあるんだけど、普通に自分で「へ〜なるほどね」とか思ったりする。

おそらく、この“文章を書くことのおもしろさ”の根源にあるものは、自分が文章そのものに求めている「おもしろ」だ。とすれば、その「おもしろ」に遭遇するためには、書くことを続けるしかない。おもしろくないから書きたくないと避けたところで、書かないとおもしろくなることはない。こんな至極当然な教訓をさも自分が導き出したかのようにあらためて認識したので、ぼちぼち前向きに書いていけたらと思う。


何度もおもしろおもしろ言うやつがおもしろいわけない。

スキをしてくれるとたまに韻を踏みます。