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心身の体力がない

そもそも、自分の身をどこに置けばよいのかもわからないまま、とりあえず、人のいなさそうなところに立ってみる。ややもするとうつむいてしまいそうになる頭をむりやり水平に起こせば、視野の内外で人々がそれぞれ呼応するようにして目まぐるしく動き回っている。そうなると、同じ場所に立ち続けているわけにはいかず、行き当たりばったりに誰もいない場所を探してはそちらへ移動する。そうやって逃げ回るように走ることを続けていたら——さして大きな回数をくり返すより前に——人並みより大きく劣る体力の持ち主であるぼくは、息がすっかり切れてしまった。

——長く付き合ってきた我が人生の描写としても何ひとつずれるところはないが、今は、文字通りに受けてとっていただきたい。

フットサルに参加した。出不精で運動不足な自分としては大変珍しいことである。

昔から、人の大勢集まるところに混じるのが苦手だ。人間というものは情報量があまりに多い。特に視覚と聴覚を介してであるが、人のひとりが何かの行動をするたびに、——意味の有無を問わず——脳内では大量の言語的反応が発生する。一対一の交流であれば、この刺激を互いにゆっくりと交換できるからよいが、数人、十数人、数十人と増えていけばいくほど、ぼくの頭の中は混沌の様相を呈してくる。人が多ければ果たされないコミュニケーションも多く、脳みそに生成された語や句、文、あるいは文章は、対話による圧縮も吐出も吸収も叶わないままに、思考のリソースを割き続ける。だから最後にはひどく疲弊してしまう。

開催は夜であった。二十数名の参加者の一員として時間を過ごした。その翌日となる今、鈍い痛みと疲れを強く感じる。もちろん、それには肉体的なものも精神的なものも含まれる。今日は一日、何をすることもできないかもしれない。どうにも貧弱で困る。

この社会を生き抜くためには、せめてあと少しでもたくましくならなければならないということは自覚している。心も体も同じであろうが、強くなるためには負荷をかけていくこの経験を続けていくことが必要なのだという。頭では理解していても、その甲斐性がない。この文章の中でくらい、「これから毎晩走ろうと思った」だの「人の集まるところに足を運びたい」だのと書けばよいものを、宣言したところで実行に移せるわけもないと思い込んでいるものだからそれもできない。

今後もぼくは、体力がないまま、「体力がない」と言いながら、体力を消耗して生きていくことだろう。

ちなみに、昨夜のフットサルは、総じて、楽しかったことには楽しかったんですよ。

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