私が人たらしだったのは「断りたい」がわからなかったから?
先日『あざとくて何が悪いの?』を見ている中で「人たらしは断れない人」というようなコメントがあり、自分と向き合うきっかけになりました。
大学生の頃は人たらしと言われることがありました。
周りの人たちがなにを思ってそう言っていたのかはわかりませんが、誰に対しても「その振る舞い素敵だな」と思ったら伝えたり、相手が心地よく話せるようにリアクションをしながら話を聞いていたからそう思われたのかな?と自分では考えています。
あとはいろんな人と仲良くし、飲み会にたくさん参加していたから…?
(細かい話をすると、人たらしっぽくなるのは所属団体の看板を背負っているときだけで、一学部生として講義を受けているときは全然でした。ここにも自分を知るヒントがありそう)
冒頭の「人たらしは断れない人」というコメントにハッとしたのは、まさに自分がそうだったかもしれないと気づいたからです。
私が本当に人たらしなのかはさておき、人たらしと言われたことがある私を題材に深掘ってみます。
そもそも人たらしとはなんなのか?意味を調べてみました。
この記事で使っている人たらしは、1の「多くの人々に好かれること」を指します。
私が多くの人々に好かれていたかはわかりませんが、話しかけやすい・関わりやすいと思われていたことは間違いないと思います。
そしてそう思わせる要因のひとつに「断れない」が関係していると考えられます。
私にとって「断れない」とは、単純に「断ることができない」というより、その手前の「断りたいのかわからない」だったなぁと思います。
今でこそ「こういう関わり方は不快だから関わるのをやめよう」とか「自分には空気感が合わないから距離を置こう」と判断できますが、当時の私はそういったセンサーが鈍く、「みんないい人!」という認識でした(超ザックリ)。
相手に合わせることばかり特化させて生きてきたから、「Aさんはこういう感じね」と、一人ひとりオーダーメイドの接し方をしていました。
相手が違えば自分に対する接し方も違うわけで、良い悪いや好き嫌いじゃなく「この人はこういう接し方をする人だ」としか思っていなかったような気がします。
なので、誰が嫌いとか、この人は苦手だとかもありませんでした。
こんな感じで、来るもの拒まず誰にでも愛想よく接した結果、人たらし(のようなもの)になったのだと思います。
世の人たらしの方々はまた違うのかもしれませんが、過去の私の振る舞いは、自分がないからこそだったのかもしれません。
あれはあれで楽しかったこともたくさんあるけれど、これからは「自分はどんな人と関わりたいか」を意識してみようと思います。
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