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それぞれの好み

恩田陸の『三月は深き紅の淵を』
第一章のこの台詞を読んで、とても腑に落ちたことがあった。

「今、価値観の多様化とか言ってるけど、僕は完全に二極化するんじゃないかと思います。そういう多様な世界と、保守的な大多数の世界と。その保守的な大多数の世界 ー 僕が今いる環境とかそうですよね ー それは今、ローラーで有無を言わさず一色に塗りつぶされようとしているんですよ。だからその保守派に属する平均的日本人は、多様化の方の世界の人間が何をしようと平気だけれど、自分と同じ保守派に属している人間が本を読むのを憎む。一人で違うことするな、一人で違うこと考えるなって。日本人て、人間関係をわずらわしがるくせに、孤独にはものすごく弱いじゃないですか。それを解決する方法が、みんな同じことをするという手段なんですね。あの人も私と同じことしてる、だから私は孤独じゃない。それで、自分だけ違うとか、周りにいる誰かが違うことするとか言うのにとっても敏感でしょう」
『三月は深き紅の淵を』恩田陸

小説は、好きな作家や好みの文体が人それぞれ違って当然だし、それを前提として会話ができる気がする。あなたはこういうのが好きなんだね、私はこういうのが好きで…という具合に。

私がなんとなく感じていた違和感の正体がわかった。

“万人が好むもの”だ。

漫画だと、「これは絶対に読んでおけ!!」という名作があり、それはかなり広い範囲の共通認識になっていると思う。ワンピースがその代表だろう。
他にも、人に強く勧められ、知名度が高く、まるで私以外みんな読んでいるのかと錯覚するような作品が数多くある。
スラムダンクやHUNTER×HUNTER、最近のものだと進撃の巨人やハイキュー、呪術廻戦など。

いくつかは読んでみたし、確かに面白くて惹かれたけど、なんか違和感があった。
まず、読んでいないときの私の心境は、「みんな読んでるから読んでおいた方がいいんだろうな」だった。あまりにも大勢(本当に同世代では私以外みんなと思ってしまうくらい)の人が読んだことがあり、その面白さを共有している。厳密に言うと、共有しているというより、同じものをみんなで“持っている”という感覚。
“読んだことがある”という事実そのものがステータスになっているのだと思う(もちろん作品のことを深く愛し、面白さや良さを自分の言葉で語る人もいるが)。
みんなでひとつのものを持っているのに、自分だけ持っていないような状態。それにより、「私も読まなきゃ」と思ってしまっていたのだと思う。

次に、それらの作品を読んで思ったこと。
確かに刺激的で面白く、世界観に引き込まれた。多くの人を熱狂させるのもわかるし、大切な学びも得られる。
ただ、人の好みはもっと細分化され多種多様なはずではないか?ジャンルもそうだし、同じジャンルでもこっちは好きだけどあっちは気に入らない、というように。

私は、確かに面白いとは思った上で、でも私は自信に満ち溢れて迷わず突き進む主人公より、悩み葛藤しながら前に進んで行く主人公の方が好きだな、とか。
でも、みんなが「この作品は名作だ」と信じて疑わないから、私の抱くべき感想は「いい」の一択しかないように感じる。
「これ素敵でしょ」と言われたら「素敵だね」としか答えられないような。

鬼滅の刃は特に。社会現象になっていたが、日本中のかなりの人々の好みが近いというのはいささか不思議だし、そうじゃないとすれば自分の好みがどうとかに関係なく、とても浅いところで「好き」と言っているような気がしてならない。

つまり何が言いたいかというと、人それぞれ細かく違っているはずの好みが、最近は大雑把になってしまっていて、それに違和感があるということだ。

だからオタクと呼ばれる人に惹かれるのかも。誰がなんと言おうと自分の好きなものを好きでい続ける。とことん知り、深く愛する。

みんなが気兼ねなく「私はこれが好き!」と言えるような世界がいいな。立派な理由も知識量も気にせず、ただ好きという感情を素直に伝えられる世界。
そのためにまずは、私自身の好きなものをとことん愛してみる。

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