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絵の具を出すのがもったいない

私の「もったいない」という感覚は、相当強いのかもしれません。

さっき、使わなくなったチークを紙に塗ってみたところ、とても楽しかったんです。

もう捨ててしまうものだから、思い切って豪快に、かなりの量を紙の上に乗せました。そしてそれを、指で伸ばしてみたんです。

もう、それが、楽しくて楽しくて!!

チークのなめらかさや、紙の質感を肌で感じられるのも楽しいし、紙いっぱいに色が広がるのも、重なり具合で色の濃さが変わるのも楽しい!


隅々まで塗っても粉が余るような状態を見て、「こんなに贅沢に、紙の上になにかを塗り広げたことってなかったなぁ」と思いました。


小学生の頃の記憶

図工の授業のとき、パレットに出す絵の具の量がとても少なかったことを覚えています。

たくさん出すと使い切れず、洗い流さないといけないじゃないですか。それがいやで。もったいないなぁって。

じゃあ最初から出す量を少なくすればいいんだ!って思って、使いたい色だけを、ほんのちょっと出す。そして足りなくなったら、またほんのちょっと出す。これを繰り返していました。

おかげでパレットは一部しか汚れず、授業終わりに洗うときには、絵の具はほぼない状態でした。

一方で絵は、ただでさえ少ない量の絵の具を、さらに水で薄めて使うもんだから、とても薄い(よく言えば淡い)仕上がりでした。

交通安全のポスターで入選し、冊子に掲載されたことがあるのですが、他の子の絵はどれも色が濃くはっきりしているのに対し、私の絵は薄く、逆に浮いていました。

それも個性・良さと捉えてくれる人もいるかもしれませんが、いわゆる「子どもらしくて自由な絵」というのは、絵の具を存分に使うものなのだろうと思います。

今思うと、絵を描くことに苦手意識を持ったのは、不自由さがセットだったからかもしれません。その反動か、今は自由に絵を描くことにすごく興味があります。


書道の授業で使う墨汁も、必要最低限しか出さないようにしていました。余った分を流してしまうのがもったいないと思っていたからです。

こちらも絵と同様に薄い仕上がりでしたし、常にかすれていました。


考えられる原因

原因として考えられることのひとつは、節約です。

絵の具も墨汁も親が買ってくれたものだから、使い切らないように、新しいものを買わずに済むように、節約していたのかもしれません。

実際は、私の家は絵の具一本買うのも難しい、という状況ではないどころか、母が働かなくても生活できるくらいだったので、私が気にする必要はなかったはずです。

母も「気にしなくて大丈夫」と言ってくれていましたが、私は「気を遣わせないようにそう言ってくれているんだ」と解釈し、家計に負担をかけないよう節約していたように思います。

(この思い込みはどうやって生まれたのか…言い方を変えると、母の言葉を信じていないとも言えるんですよね。)


もうひとつは、価値が変わることへの違和感です。

どういうことか、絵の具を例に説明すると、

①チューブの中に入っている
 →今後使える(価値あり)
②パレットに出ている
 →授業時間中であれば使える(価値あり)
 →授業が終われば使えない(価値なし

このように、絵の具そのものは変わっていないのに、条件が変わることで価値がなくなるということが起こります。

これがよくわからないというか、受け入れられないのかもしれません。

さっきまで必要とされていたのに、途端にごみとして扱われる。そのことに抵抗があるから、ごみにならないよう、そもそもチューブから出さないようにしていたのかもしれません。



今回は「描くための材料」に絞ってお話ししましたが、食材や布、電気、お金など、もったいないの感情が発生する対象は多岐にわたります。

こうしてnoteにエピソードとともに書いていると、なんとなく考えているだけでは気づけなかったことが出てきて、さらに「あのときはこうだったな」と繋がっていく感覚があります。


とても個人的な内容ですが、読んでくださった方が、ご自分についてもっと知りたくなるきっかけになったら嬉しく思います!



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