「そんなもんだよ」ってなんだよ
最近私、ちゃんと怒れるようになりました。
今までの自分なら特に疑いもせず、なんとなく受け入れていた言葉たちを、受け入れなくなりました。疑えるようになりました。
10代の頃に尊敬していた存在
元々私、周りから見たら
・すぐ人を信じる
・騙されやすそう
・信仰しがち
・崇拝しがち
みたいに思われていたと思います。
というか耳にタコができるくらい、散々言われてきました。
その言葉たちも、今となっては物申したいわけですが、当時の私は「確かにな〜」とか「よく言われる〜」と、受け入れていました。
自分では自分のことがよくわからない、一方で周囲の人たちは私のことを見てくれているから、きっとみんなが言っていることは正しいのだろうと思っていました。
まあこの件についてはまたの機会に…
学生にとって、大人ってある程度絶対的な存在だと思います。
人によっては「大人だからって全部正しいわけない」とか、「尊敬すべき存在だと思わない」という人もいると思います。
尊敬しているとしても、程度や尊敬する箇所が違ったり。
でも私は、結構ちゃんと尊敬してきました。
そもそも真面目ゆえなのか、目上の方は敬意を持って接するものという意識が人一倍強かったように思います。
でもそれだけでなく、純粋に尊敬できると判断したから尊敬していました。
あくまで当時の自分が見ている世界での話だから、今思うと狭い世界だなぁと思いますが、10代の学生にとっては学校や部活が世界のすべてに思えても仕方がないわけで、その世界において、尊敬に値すると思っていたわけです。
私には私なりの判断基準がありました。
関わる中で相手のことを知り、考え方や価値観、美学などを感じとる。そのうえでいいなぁと思うから慕う(まあ当時はこんな言語化できているわけもなく、不思議がられたり不審がられたりしてもなにも言い返せませんでした)
この自分なりの判断も、私は本当だったと思っています。
でもそれだけでなく、目上の人に対するいいところを見て、よくないところは見ないセンサーが働いていたのもまた事実だろうと思います。
忖度です。そんな言葉も知らなかったけど。
20代になり、学生の頃より広い世界を知りました(また数年後振り返ると、今の世界も随分狭く思えるのでしょうが)
自分の状況が変わってから再び関わるようになると、いろいろ思うところがありまして…
違和感に、ちょっとずつ気づき始めていたんです。
でも過去に尊敬していた存在を、というより尊敬していた自分自身を否定するようで、そう簡単には認められませんでした。
知らぬが仏、気づかなければ楽だったのかもしれない。今も綺麗な思い出のままだったかもしれない。
でも一度感じた違和感は、なくなることなく膨らみ続けるから不思議。
「自分がどう思うか」だけで話せた日
この間、ようやく現実を見れました。
「私の今の気持ちを聞いてもらった上で今後のことを相談したい」と伝え、私が感じていること、考えていることを話しました。
「そんなもんだよ」
って言われました。
「そんなもん」だという根拠を、あれこれ言われました。
私の伝え方が良くなかったのかもしれない。
私の考え方が複雑なのかもしれない。
私が未熟なだけかもしれない。
だからって、心の叫びをそんな一言で片付けんなよ。
私にとって、この話をするのはすごく勇気のいることでした。少し前の私は、自分の気持ちに気づかず、全体が丸く収まるような選択をしてたと思います。でもそうせずに、自分の気持ちを置いてけぼりにせずに進めていきたいと思ったから話したのに、返ってきた言葉が
「そんなもんだよ」
なんかもう、この人にはなにも話したくないと思いました。私の言葉を、気持ちを、聞く気がないらしいから。
自分がいかに都合よく相手を見ていたか。自分の見たいように見ていたか。
初めて相手を過不足なく認識できた気がしました。
そこでなにかが吹っ切れて、相手の発言のなには聞くべきで、なには聞かなくていいか、冷静に判断できるようになりました。
なにひとつ、私のための言葉はなかった。
「私のため」を装った、「自分のため」の言葉の数々。
うるさいうるさいうるさい。黙れ。そんな言葉いらない。
昔の自分なら、「この人が言うなら、きっと大事な意味があるのだろう。今の私にはすべてを理解することはできないけれど、理解できるようにならなきゃ」と思っていたと思います。あーやだやだ。向こうもただの人間。いつもいつも示唆に富む発言だなんて、そんなわけないのよ。
結局どうしたかというと、感じたままに言葉を発し、泣き、その場をあとにしました。
今までは、そもそも「自分が感じたこと」を認識できていなくて、その場で求められている言葉を発するだけだった。「自分がどう思うか」じゃなく、「この状況ではどうするべきか」だけで物事を判断してた。
このとき初めて、「この状況ではどうするべきか」の優先順位を下げ、「自分がどう思うか」を最優先に言葉を発することができました。
慣れないことをしているから、
・自分の話す日本語は適切だろうか
・自分の表情はどうなっているだろうか
・周りはどう思っているだろうか
・怒っていないだろうか
・困らせていないだろうか
・こんな態度をとるなんて失礼だよな
など、いろんなことが頭を駆け巡りつつ、考えて対処できるような状態でもないし、もうそんなこと気にしたくない自分もいたから、とにかく自分の感覚だけを頼りにして。
その場を去ったあとも、気持ちが落ち着くまで時間がかかったけれど、あの場で感じていた不快感から解放されたことが、その選択をできたことが嬉しかった。
「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」ですね。
直視することで感じる痛みの正体
相手の嫌なところを見ることは、同時にそこを見ていなかった過去の自分に気づくことにもなる。
自分の信じていたものが、本当は自分が作り出した幻想だった。
自分勝手に幻想を作り出し、尊敬する理由にしていただけだった。
自分が見ていたその人は自分で作り出した幻想でしかなくて、存在するままの姿を見れていなかった。
自分の見方は歪んでいた。
こんなことを突き付けられた感覚。
これを認めてしまったら、これまで積み重ねてきた自分の中のなにかが崩れてしまう。
そのことに気づいているから、痛いんだと思う。
薄々気づいてて、でも認めたくなくて、必死に目を背けようとする。
「痛いでしょ、見ない方がいいよ」って、自分の中のなにかが言ってる。
そこで目を背けてしまえば、痛みから解放され、積み重ねてきたなにかが崩れることもない。過去のこともこれまで通り、綺麗な記憶として保管される。
それはそれで選択肢のひとつだと思う。
でもそっちを選んでも、気づいてしまったことは消えなくて、ずっと残り続けると思う。
違和感がもたらすざわざわは、次第に大きくなって、無視できないほどになる。それはすぐかもしれないし、数年後かもしれないけれど。
ざわざわに気づかないふりをするのは、結構エネルギーを使うことだと思うし、いずれ無視できなくなって、また直視することになる可能性が高い。
だったら、気づいてしまったその時に直視するのが、結果的に一番消耗しないのではないか。
一時的には痛い。しんどい。逃げたくなる。
でも、それをちゃんと見て、自分の弱さや間違い、歪みと向き合うことで、これまで越えられなかったところを越えることができる。頭打ちに思えた人生が、再び動き始める。
まあ向き合うって本当に難しくて、ひとりじゃどうにも限界がある。一緒に向き合ってくれる存在の有無が、人生を大きく変えるなぁと。誰かにとってのそんな存在に、私はなりたいのかもなぁと。そんなことを思っています。
不都合な真実を知り、自己嫌悪に陥ると同時に、そんな過去と決別することができて清々しくもあったお話しでした。おしまい。
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