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そもそも「いい子」ってなによ

私が適応障害になったのは、「いい子でいるのをやめる」宣言だった、といった内容の記事を昨日書きました。

ただ、そもそも「いい子」とはなんなのか、どの状態を指すのかを明確にできていなかったので、私の人生における「いい子」の定義を考えたいと思います。


私の人生における「いい子」の定義

早速一言で表すと、 “周りが望む振る舞いをすること” かなと。

例えば、公共の場で親が「静かにしなさい」と言っても騒ぐ子どもがいたら、「困った子」「言うことを聞かない子」と思われる可能性が高いと思います。

一方で、言うことを守り、静かにする子どもは「いい子」と思われる。

さらにいうと、「ここでは静かにするべきだ」と自分で判断し、親が注意する必要すらない状態にする。これが私でした。


もとを辿ると、幼い頃から、気難しい兄で手一杯な母に負担をかけないよう振る舞っていたのだと思います。

・負担をかけないようにしよう
・少しでも楽にしてあげたい
・余計な手間をとらせたくない


かなり早いうちから、これらを当たり前に意識していました。


周りが望む振る舞いをする

を言い換えると、

自分の望みは後回し

とも言えます。


「私はこれが欲しい」と思っても、他に欲しがる人がいるのなら、その人に譲る。自分が欲しい気持ちより、周りの人の望み通りになることを優先する。

日本では自己犠牲が美徳とされるのかもしれませんが、今の私はそうは思いません。

自分でも気づかないほど、自分の望みを抑え込んでまで、人のために動くことになんの意味があるんだろう。


その反対は「わるい子」?

いい子という言葉があれば、反対にはわるい子がいることになります。

先程の私の定義から考えると、周りが望む振る舞いをしないと「わるい子」ということになります。

おや?


確かに、思い通りに動いてほしい人にとっては都合が悪いと思いますが、周りが望む振る舞いをしないのはむしろ自然なことというか、一人ひとり意思を持って動いていれば、誰かにとっては望まない振る舞いになるのは当然のことです。

というかそもそも「いい子」「わるい子」という言葉自体、誰かの主観に基づく判断でしかない。


いい子 → 誰かにとって都合がいい子
わるい子 → 誰かにとって都合が悪い子

ということみたいです。

ここまで考えてきたら、常に「誰かにとっての都合のいい子」をやってきた自分がばかばかしく思えてきました。なにしてたんだろ。しょうもな。


全部よくないわけでもない

と言いつつ、いい子をやってきたことが全部悪いとも思っていません。

これまでの行動すべてが自分の意思に反していたわけでもないし、自分の望みを後回しにできることが強みになった時もある。これまでの経験は、いい子をやれたからこそ。

ここまで突き詰めて誰かにとって都合のいい振る舞いをできるのもまた、才能なのだと思います。


この能力の使いどころと、自分の望みを無自覚に抑え込むのではなく、意図的に出したり引っ込めたりできるようになればいいのだと、今は思っています。


つまりこれからの私には、自分の望みを大切にすることが重要みたいです。

以上、私の人生における「いい子」の定義でした!


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