私が『深い雑談』をやるのは、建前じゃなく“本音”を言える存在でありたいから
私が『深い雑談』をやるのはなぜか?
→人に出しにくい部分を「出せる」存在でありたいから
こちらは、先日『深い雑談』をした方からいただいたメッセージです。
この方は、昨年12月のプログラムに申し込んでくださった方で、対話とチャットを通していろんな話を聴かせていただきました。
しばらく連絡をとっていなかったのですが、ゴールデンウイークのタイミングでたまたま私が『深い雑談』を始めたことを見つけてくださり、「これだ!!」と思って申し込んだとのことでした。
この方の応援の気持ちがとても温かく、また私と話す時間を心から楽しんでくれていることが伝わるので、これからも自分を信じて頑張ろうと思わせてもらいました。
この方のメッセージによって、私が『深い雑談』をやる意味や想いがより鮮明になりました。
この方は、『深い雑談』の場を「毒を持つ顔も出せる居場所になった」と表現してくださいました。
これがものすごく嬉しくて。
どういうことかというと、簡単には出さない部分を出せる相手だと思ってもらえている、ということだと思うから。
ここでいう“毒を持つ顔”とは、本音と建前の“本音”の部分という感じ。
例えば友人と喧嘩をしたとき、
・「私も悪かった、ごめん」と言うことで場をおさめる(=建前)
・許せていない部分がある(=本音)
という状況はよくあると思います。
本人に対して本音を言ってしまうと、場がおさまらない。かといって他の人に赤裸々に本音を言うことは、良くない印象を持たれる恐れもあったり…
でも私は、本音こそ大切にできたらいいなと思っています。なぜなら、それは紛れもなく自分の感情だから。
「とはいえ向こうも悪いよね」とか、「あんなこと言われて正直傷ついた…」など、自分の中で思う分には自由だよなぁと。
わざわざ人に言わなくても、自分では自分の本音を聞けている状態。
この状態がひとつの望ましい状態なんじゃないかと思っています。
でも「人のせいにしてはいけない」と言われて育った私としては、自分の本音に対して「そうだそうだ!」と加勢(同調)するのって結構難しいと思っていて。
「そんなふうに思うのは良くない」と、自分の本音に蓋をして抑え込む可能性がある。
そんなときに効果的なのが、本音を否定しない人と話すことだと思います。
「そんなふうに思うのは良くない」と言わず、かといって過剰に同調するわけでもない人に話すと、「自分の本音は自分のものじゃん」と思える。
なんでこんなことを言うかって、まさに私がそういう関わりをしてもらったことで、自分の本音を大切にできるようになったからなんです。
弱さを出せると強くなれる
「弱い部分を出せたら、もっとみんな楽になれるんじゃないか」
これは、私がずっと思ってきたことです。
例えば、家族のために働いているお父さん。
大黒柱として、男として…「強くあらねば」と、常に気を張って過ごしているかもしれない。
職場では立場に合わせた振る舞いをし、家に帰っても弱音を吐かず強くあろうとしているとしたら。
いつ、弱くなれるんだろう?
ずっと強くいることって、すごく苦しくて、つらくて、心細いことなんじゃないか。
人間だれしも苦手なこと、弱い部分があるはずなのに、「理想の〇〇像」からはみ出ないように、期待を裏切らないように、必死に隠しているんじゃないか。
たったひとりでも、自分の弱い部分を見せられる人がいたら。
どんな自分でもいいんだって思える場があったら。
「自分いいじゃん」って思えたら、しなやかな強さが宿ると思うんです。
だめだと思っていたところも「自分の一部か」って思えると、許せるというか、愛着が湧いてくるというか。
強くあろうとするより、弱くてもいいと思えることが、結果としてその人を強くするんじゃないかなって。
だから、誰かにとって、他の人に出さない部分を出せる相手になれたらいいなと思って、『深い雑談』をやっています。
気になった方は、お気軽にご連絡ください。
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