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それぞれの映画が持っている記憶


 我が家のテレビのレコーダーには映画がたくさん録画されている。
母が毎週欠かさず番組表をチェックし、興味のあるものをどんどん録画していくのだ。

リビングにあるテレビから、録画された映画が流れている。
「あ、また始まった」と思い、
私はそれをチラチラと観つつ、意識は手に持つスマホに注がれている。
そのままかと思いきや、映画も中盤にさしかかると、
やっぱり私はテレビの画面を食い入るように観ているのだ。
映画の面白さもそうだが、理由はもうひとつある。

母と私が興味をもつ映画は、はっきりと違っている。趣味が合わないというわけではないが、初めて知るもので「観てみよう」と思うものが違うのだ。母は幅広く映画を観るが、特に好きなのはホラーやアクションである。私は積極的に観るほうでなく、淡々と日常を描くものだったり、とにかくそういうものが好きである。だから録画された映画が流れ始めても、序盤はすこし疑いを持ってしまう。
「私は面白いと思えるだろうか…」と。
しかしそんなことを思っている私にはお構いなしに母は映画を楽しみ、素直なリアクションによって、だんだんと私の視線をスマホから目の前の大きな画面へ移させて、興味を持たせるのであった。

 母は感情の豊かな人である。
アクションシーンの多い映画を観ていると、最初は遠慮しているのに、終盤になると、登場人物を応援する熱い掛け声が止まらなくなってくる。感動する映画を観ていると、私がエンドロールをぼーっと見つめている横から鼻を啜る音が聞こえる。グロテスクな映画やホラー映画のときも、私が顔を手で覆って指の隙間から恐る恐る画面を見ている横で、
「これは怖いわ」
「わー、逃げてっ!」
等々、とても楽しそうにリアクションをするのである。

それにつられて、私は結局、最後まで映画を観ることになるのだ。

私はいつのまにか怖がったり笑ったり感動したりしている。
雰囲気づくりに暗くした部屋のなかで、画面の光を受けて浮かびあがる数々の表情はその映画の内容と一緒くたになり、私の頭の中にひとつの思い出として残っていく。

 もちろん一人で映画を観るときもあって、この準備ではとても楽しい時間がある。
それは、どの映画を観ようか迷っているときだ。

私は主にDVDを借りたり、サブスクを利用したりして映画を観る。たくさん並んでいるDVDの棚に囲まれている時の空気や、液晶にずらっと表示される映画のなかからひとつひとつ選んで独自の「観たいものリスト」を作っていく時間がたまらない。そうして時間をかけ、これだと選んだ一作を観たあとは一人でじっくりと余韻に浸る。

人と映画を観る。それはそれで楽しみがある。
ただ一人で映画を観るとなると、どこかで内容の感想を書いたり喋ったりしなければ、その映画が私に与えたものはほぼ自分で完結するし、自由だ。
寝れないからと布団のなかで観た映画が素晴らしかった。活力がみなぎってきて、深夜なのに突然、棚や部屋の整理をしてみたり、二、三日サボっていた加湿器の給水タンクに水を入れるという作業をしてみたり、明日の予定をワクワクしながら立ててみたりした。すべて、自由だ。
つまりは一人である。

映画を観たあと、長い時間、それこそ夜が明けるほど深く考えこむことが許されるとき。つまりは一人である。

一人で密かにゆっくりと楽しんだ時間が、
これまた映画の内容とくっついてひとつの思い出として脳内を鮮やかにする。

 頭の中で想像するものと比べ、映画は視覚という情報があるから、前後の現実の情報が結び付けられやすいのだろうか。ひとつの映画を思い出すとき、必ずその前後の思い出がそれぞれの内容にくっついている。

 映画館というところは幼い私にとって特異な場所であった。
今でも、小さいときほどではないにしろ、行くと特別なものを感じる場所である。

混んでるけど時間に間に合うかな。チケット失くさないようにしなきゃ。
暗くて、静かにしなければいけなくて、人がたくさんいて、大きい大きいスクリーンでおなじものを観る。そわそわして落ち着かない。予告が流れ、
「あ、これ面白そう」なんて思いつつもさらに緊張感は高まって、ついに本編が始まる。途中でふと家族の様子をうかがうと、寝ていたりする。それなのに、最後のシーンになってはっと私がもういちど表情を見ると全編寝ずに観た私よりも泣いていたりして驚く。そのうちになんだかおかしくなってきて、なんとか笑いをこらえた。

映画はやはり映画館で観るのが一番だと思う。画面の大きさも音響もなにもかも段違いだ。圧倒的な体験ができるからこそ、山盛りのポップコーンに手を伸ばそうとしたら家族の手と当たってしまい、つい小声でも「ごめん」と言ってしまったことなんかが思い出のなかで際立つ。今思い出すと胸に迫るのは案外そういうことだったり、行き道の不安とワクワクが入り混じった妙な感じや、しみじみとしたものを共有しながら買い物に寄る帰り道だったりするかもしれない。もちろん軸にドーン!と置かれているのは映画の存在であるとして。


 目に見えるということは良い意味でわかりやすくてとても有難いと思う。
さまざまな人が見てきたものを、自分の頭では思いもよらぬことを、天才が頭で思い描いたものさえ、映画は目に見えるかたちで残しておいてくれているのだ。
それは時代や人から映画に込められた、映画そのものの記憶だと思う。
当たり前のことかもしれない。しかし考えてみれば本当に凄いことである。

どうしても、これだと決められないくらいにありふれた思い出。
どれも抱きしめるとへんに心地良い、数えきれない思い出である。
さまざまな記憶に触れて、あたらしい思い出を増やしていきたい。
でも、振り返るのも忘れたくない。

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