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高架下の秘密

人が日々を過ごしていく中で、いつもは意識していないものに、ふと目が留まる瞬間があると思います。
ええ、そうです。いたって平々凡々、日常の一色、でもその時の自分にとって特別な何か。


私はある時、どこにでもあるであろう、ある高架下のトンネルに目を奪われました。そして、日が落ちていく頃に、家の最寄り駅から延びる線路沿いをずっと進むようになりました。
知らない場所で、線路の下にそっと存在する見たことのない道を、毎日、ただひたすらに訪れていたのです。

なぜそんなことを、と問われれば、トンネルの妙な魅力に憑りつかれたと言うしかありません。外の浴びるほどの光とざわめきを吸い込み、重冷えた火照りを吐き出しているその異質な存在が与える、何とも言えない独特の感覚に、ぐっと引き寄せられたのです。
他にも、日常的な緊張や騒音からの解放、現実からの逃避、もっともらしく挙げられるものも多くありますが、この感情に聞こえの良い理屈をつけることを私は拒絶しました。
その時特に何かを考えて動いていたわけでもなく、しっくりこないという感情を誤魔化してうわべだけを整えて述べることは、自分への冒涜であり、不健康だと思ったからです。
とはいえ、強いて思い当たることを言うならば、この行動の理由に最も近しいものは、およその人間がどこかには持ち合わしている好奇心ではないのでしょうか。
勿論それだけでなくて、気になるととことん突き詰めたくなるという生来の気質が、この行動の継続の一因として大きく働いていたのであろうとも感じています。

子どもの頃からのんきな空想家で、よく一人で遊んでいました。成長するにつれ、なんとか友人と呼べる人間も出来始めはしましたが、夢想的な性格はどうやら治らなかったようです。
数えるほどの友人にも、今でも苦言を呈されることはしばしばあります。
私はもうすぐ三十代にさしかかりますし、そろそろ好奇心だけで動くべきではないと自覚はしていても、気になることはやはり気になるのです。

そんな私の趣味ともいうべき高架下巡りは、自分だけの秘密でもなく、ことさらに隠そうともしていませんでした。
そのため当初は好きな時に楽しんでいたのですが、同僚にこの話をしたところ、せめて人目の多い昼は避けるべきだとの助言をいただいたので、それからはおとなしくその通りにしていました。(時に世間からズレるらしい私は、周りの人間の、貴重で善良な助言には従った方が良いということを、これまでの経験からよく知っているのです) 
改めて考えてみると、ギラついた目で辺りを窺いながら、田舎の線路沿いの土手を歩くひょろ長い女の姿は、成程、道行く人々に不審がられるに違いありません。
そういう訳で、単に少し人目を避けた結果、活動は日暮れ頃という然るべき時間に落ち着きました。

この話をすると、よく怪訝な顔をされます。私が述べる理由は、理由になっていないと大抵の場合言われてしまうのです。
しかし、おそらく貴方が奇妙に思われたであろうこの行動の話も、私という人間の紹介も、これ以上上手く出来るとは思えません。
私は私のことがよく分からないのです。私の行動や性格について聞かれても、他人を納得させる説明を十分にできません。だから手っ取り早く、ある高架下のトンネルでの話を、これからお伝えしたいと思います。
私が経験してきたことが私を構成しているならば、この話もまた私の一部分であるということでしょうから。


今から十年ほど前だったでしょうか。いつものように線路沿いを散策していた私は、魅力的な新たな道を発見しました。それは線路の下、道幅は車一台も入れぬ程狭く、コンクリートで固められ、所々雑草が生えているような無骨なトンネルでした。壁面は所々ひび割れ、蔦に覆われています。外が薄暗いためか中の状態が判然とせず、どこか得体のしれない印象を与えるこの道は、当時の私の心の琴線に触れるには十分でした。

 そうと決まれば即行動、履いているパンツスーツを少し上げて、土手から軽く飛び降ります。パンプスが変な凸凹に固まっている地面に引っ掛かってバランスを崩しながら、独特のステップを踏んでやっとアスファルトに降り立ちました。
土埃を払いながら顔を上げるとそこには、薄闇がかった赤字の「頭上注意」のプレートが、黒い穴の上にぼんやりと浮かび上がっています。

呼吸を調えて視線を右に移すと、一つしかない街灯にぼんやりと照らされて、ブロックにぽつんと張り付いている干からびかけた蛙がいやに目につきました。それはじっとこちらを見ているように思えて、これから私が何処へ行っても、てくてくと、乾燥した不安と温かい恐怖がにっこりと背中についてくるような気がしたのです。

そんな奇妙な感覚が長く続いて、いつもならすぐに入って歩き回る高架下の前から動けずにいたのですが、日が落ちきった頃、私の前に一匹の蛙(干からびている蛙は未だブロックに張り付いていました)がぴょんと現れました。その蛙は突然、「ぎゃわろ」とひと鳴きするとそのままトンネルの向こうへ跳ねていきました。
その瞬間、膠着していた空気が開かれた高揚感と共に気づけば、あれだけ入りにくかったトンネルに駆け込んでいました。
なんだか蛙も、私も、周りの空間も、全て底の見えないこの穴に呼び入れられたような感じもしました。なんとも不思議です。あの時は確かにそんな気がしたのです。

トンネルの中は静かで、靴音が反響してよく聞こえます。足元には排水のパイプがあり、アスファルトの雑草、壁面の苔などがひっそりとそこには暮らしていました。
入ってみればいつも通り、親しみのある空間です。
歩いている私には息遣いが意識せずとも耳に流れ込み、思わず目を閉じたり、立ち止まったりもしました。
上の線路を通過している電車は、時折私の身体を響かせて揺らします。
私は、進みながら感じるこの籠る雑音と空気、狭くて、自分以外いない高架下の空間が、全てを支配したような気分になって好きでした。

そうして満足するまで存分に歩き回って、さあ帰ろうとした時、私は視界に気になるものを見つけました。
壁面の割れ目からかすかに覗く枝です。
一見しただけでは気付き辛いですが、確かに枝は何本かが組み合わさっていて、まるで籠のようにみえます。頭ほどの高さにある、その枝があるひび割れに顔を近づけた私は驚きました。
そこには城があったのです。

いや、勿論本物の城が建っていたのではありません。けれども、その壁の穴に作られた丁寧に工夫して整えたのであろうスペースは、見知らぬ誰かの城だと私に感じさせました。
その斜めにひび割れた穴は下に進んでおり、表面から見えた籠のようなものが何個かぶら下がっています。土には小さな青色の花や緑の葉っぱが植えられていて、どうやらプランターの役割を果たしているようでした。
内部は途中で横穴になっていて、そこには綺麗な石や、押し花、貝殻などが思い思いに置かれていました。
その中でも私の目を引いたのは、中央にあった青みがかった小石です。一番目を引くところに整えられた艶やかな青色は、作り主の想いが感じられて、一等私の目には魅力的に映りました。

 次の日から、私はほぼ毎日のようにこの場所に通うようになりました。高架下の、私が支配している空間で、誰かの城を覗くという行為に入れあげたのです。
他人の物語を無許可で眺めるその奇妙な背徳感と陶酔感に、当時の私の身体の中を、なにか熱いものが縦横無尽に駆け回っていました。

 そうしてこの高架下を訪れるのも日常になったある日、ひび割れの前に一人の少年が立っていました。
予想だにしない自分の世界への侵入者を目の当たりにして私は戸惑い、恥ずかしながらも、彼を目にした場所から一歩も動けずにその黒い学ランを見つめることしかできませんでした。

ジョウロやスコップを持参し、布袋から何か取り出しながら作業する少年をどれぐらい見ていたのでしょうか。不意にそのスポーツ刈りの頭が動き、彼の顔がこちらを向いて声を出しました。

「不審者?」

 私は慌てました。誤解を解かなければならない!

「いや、けっして怪しい者では」

「説得力ねぇよ、そんな姿で」

 即座に返された言葉に、わが身を思い返します。仕事帰りのスーツの服装。それに対比して、くたびれた運動靴に履き替えた足元、動きやすいようにリュックにした鞄というちぐはぐさの女が、少年をずっと見ていたのは流石にまずかったかもしれない。と。

「通報されなかったことに感謝しろよ。こんなとこで突っ立って、何してんの」

 何をしているのか。そう尋ねられて、答えに窮して思わず明後日の方向を向いてしまいました。少年はそんな私を気にしていないのか、いつの間にか作業に戻っています。
ひび割れの中の、お城の整備。

「それ、君の?」

 私は少年の問いかけから少し経って、彼の後頭部に声を投げました。

「そうだけど」

「私、それを見に来た」

 そうです。私は、彼の城を私の世界で覗き見るために、ここに通っていたのです。

「ハア、わざわざ?」

「わざわざ」

 動かしていた手を止めて、ため息をついた少年は荷物をまとめ始めました。

「変な奴」

 そうしてこちらに顔を向けずにそう言うと、静かにトンネルを出ていってしまいました。
少年がいなくなった後に覗き込んだ青い小石は、やはり魅力的に輝いていました。

それが、少年に会った初めての日でした。

 それから私はちらほらと少年と出会うようになります。出会い方はまちまちで、すれ違いの日もあり、私が先にいる時もありました。ほとんどの場合二人共無言でしたが、お互いやはり人間で、何度か会えば、少しの親しみは感じるようになります。
やがて一言二言言葉を交わすようになり、そしてしっかりと二回目の会話をするに至りました。

「あんた、まさかいつも来てるの」

 その日は青年はあきれたような顔をして、先に来ていた私の後ろに立っていました。

「どいて。今日は俺急ぐから」

 少しざらざらとした重い空気を声に乗せた少年に、私は大人しく場所を譲りました。彼の手は慣れた動きで城を整えていて、どこかあたたかくて柔らかいその手つきをぼんやりと見ていた私は、ふとこの城の良さを彼に伝えたくなりました。少年の持つざらざらとした空気を変えたかったのかもしれません。彼の手つきを見て、なんだか幸せになったからかもしれません。いずれにせよ、私は彼の城に対する好意を伝えました。

「その穴凄いよね。なんか、城って感じがする。うまく言えないけど。青色の小石が特に好き」

 唐突で、なんとも具体性の欠ける私の言葉に返答に迷ったのでしょうか。すぐに返事もなく、私も好意を伝えたことに満足して帰ろうとした時に、彼は口を開きました。

「青い小石はこのトンネルのそこら中に落ちてる。どこにでもある。」

 話しながら、ジョウロを持つために私より背の高い少年が屈んだことで、穴の中が見えました。どこにでもあるというけれど、やはりその青い小石は美しくて、変わらず特別な印象を私に与えています。

「ふうん、でも私はそれがいい」

「物好きだな」

 少年がジョウロに水を入れ始めたのを見て、それで会話は終わると思っていた私の予想を裏切り、少年はこちらを向きました。そうして引き伸ばした口をもにょもにょと動かしてから、ポツポツと話し続けました。

「狭くて、暗くて、人も来ない。いい感じの穴があったし、軽い気持ちで手を入れたら案外うまくいった。で、なんとなく置きたいものを置いて。止めるに止められず今に至るって感じ」

「それにこの高架下って雰囲気がある」

 この城の成立過程を自分以外と共有したいかのように、この日の少年はとても饒舌でした。
どこか嬉しそうに手入れを続けています。

「自分だけの秘密、みたいな」

 それは私が思っていたこと。流石にそうとは言えなくて、丁寧にジョウロで水をやる少年の、右足の靴紐のほどけたハイカットに視線を移しました。なんて返せばいいのかと頭を巡らせ、そして、この空間への侵入者が私であったからには、謝罪をするべきではないかと思い至りました。

「……なんかごめん」

「いいよ。でもアレだ、そうなると今は、二人の秘密か」

 二人の秘密という言葉は、私の心の中にぐんと入ってきました。少年は私の目をしっかりと見てこちらをを向いていて、想像していたよりも力のある両目に、私はたじろぎました。

「なるほど」

 動揺した私には、彼の言葉にこう返すのが精いっぱいでした。到底返事にはならないような私の言葉でしたが、少年は気が済んだようで、そのまま走って高架下から去っていきます。形容しがたい感情を抱えた私は、食いつくようにその後ろ姿を眺めました。

あの時の私はどうやら、秘密の共有という初めての刺激的な甘い感覚に舞い上がってしまっていて、自分の感情に振り回されて混乱していたようです。よくある事ですが。そうでしょう?

 秘密を抱えてからも、私は高架下に通いました。そこで偶に変化している城にほくそ笑み、少年に会った時は軽い世間話などをしてその時間を楽しんでいました。
ただ同時に何故か歯痒さのような、重苦しい妙なじれったさが、私の胸の中で蠢き始めるようになりました。
あの場所は私の場所ではありません。あの城も私の城ではありません。青い小石、あの毎日私が見守っている青みがかかった輝きも、私のものではないのです。知らない時はよかったのです。知ってしまって、会話してしまった今では、二人の秘密といえど、私はいつまでたってもあの空間の侵入者です。
私の中で、私だけのものになることなどもう永遠にない! 

 一度考え始めてしまうともう駄目でした。私はあの場所に行っても、満たされないようになってしまったのです。そのくせ城を見に訪れることは止められなくて、変わらず、いやそれ以上に惚れ惚れする姿を晒す青色の欠片を見ながら、手に入らないその空間にずっと焦がれていました。
身体を揺らす音と空気、高架下の私の空間、誰かの城、青い小石。私の中は噛みきれない何かに一杯になって、息ができずに溺れそうになっていました。何回通ったでしょうか、眺めて悶えて、そして思いました。

 欲しい。

 周りには誰も、少年もいませんでした。今なら出来るのです。少し手を伸ばして、城の中の何かを握ればいい。それだけで、私はこの空間に干渉できる。上書きできる。

気付けば私は、貝殻や小石を幾つか自分の手で包んで、そのままポケットに入れました。
心臓がいつもの何倍も強く拍動して、手は、握った形からどうしても動かなくなりました。
手のひらにジワリと汗がにじんで、その中の熱に私は支配されました。
その熱さが私の手にある青い小石の意思のように感じて、そして、この城に私が混じった充足感に、もっと前にこうするべきであったと瞬間的に確信したのです。
遂にやった! 異様な昂奮の中で、私は跳ねて、トンネルの中を駆け出していました。

 

私が青い小石を手に入れてからは、それを片手に高架下に通うようになりました。
きっと少年は空いたスペースにトンネル内から探し出した他の青い小石や何かを置いて、また手直しをしていくのであろう。そう予想して、私はふわふわと浮かれていました。私が関わった空間がどう変化していくのか、それが楽しみで仕方なかったのです。
そうして幾日か経って、少年と鉢合わせました。

その日は雨の匂いがしていました。
私が来た時、すでに少年はいつものように作業をしていて、彼の背中を見ながら私はただじっと立っていました。なんだか私から声をかけることが難しくて手持ち無沙汰で、地面を見ながら、どうしようかと思い始めた時に彼は話し始めました。

「ここは道で、沢山の人が通る」

 その言葉は私にとってあまりにも唐突で、少年は一体何を言おうとしているのか、全く理解できませんでした。戸惑う私のことなど見ていない少年は、いつもより手早く荷物をまとめながら続けていきます。

「他の道路と一緒で、公共物で、言ってしまえばただのトンネルだ」

 少年から硬い空気が醸し出されているような気がしました。何も言えなくて、せめてもの抵抗として私は彼の顔を見ようとしたのですが、少年は一貫してこちらに背を向けていて、表情を見ることは失敗しました。
路肩の湿った土の匂いが鼻について、嫌な気分を振り払うように彼の手にあるスコップに目を移すと、まだ綺麗で使われていないことがはっきりと、よくわかりました。

「俺は、もうここに来ない。そもそもこんなこと、何の意味もないし。」

少年はそう言うとまとめた荷物を持って、静かに帰っていきます。私は何も話すことができず、訳も分からず、その背中を見送ることしかできなかったのです。
ずっとトンネルの向こうを見ていましたが、結局、少年は最後までこちらを向くことはありませんでした。

少年のいなくなった高架下で、壁面の穴を覗き込むと、空いたスペースは、変わらずそのままでした。


私は不思議に思いました。
何故今日少年は城の空いたところをそのままにしたのでしょうか。
何故少年はあんな話をしたのでしょうか。
そして何故、少年はもうここには来ないと、そう言ったのでしょうか。
ただ分からなくて、去っていく少年の姿とともに得体のしれないものが私の中から引き抜かれていく様な、何か絶対やってはいけないことをしてしまった様な気持ちに襲われました。
あの少年の口から、誰よりも城を愛していた彼から、「意味がなかった」という言葉が出たのが信じられなかったのです。
よりにもよって彼がそんなことを言うなんて! 

私は間違えたのでしょうか。
ポケットの中の青い小石は冷たくて、握ってもあの時のように熱を感じることはできませんでした。

外に出ると、雨がポツポツと降り始めていて、石垣の上の蛙が三匹、元気に鳴いていました。



それから、私はあの場所を一度も訪れていません。けれども、あの高架下のトンネルについての奇妙な情熱と執着の感情は、今でも胸の底に燻っています。




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