【随筆】 大阪旅行

 僕の内側にささやかな決定を施した、そんなバンドに会いに行った話。
 煙が目に入るからと、正面を見ながら俯く術を覚えた話。
 即ち、「今」の話。


 大阪城公園に着くと、まず喫煙所を探した。調べてみると、マナーさえ守れば禁煙というわけではないと分かった。木々に囲まれた道を奥へ進み、出来るだけ目立たないベンチに腰を下ろしたが、それでも周辺には何人かいた。
 灰皿がなかったので、飲みかけのペットボトルで代用する。赤子を抱いた父親が、こちらに乾いた視線を投げ、通り過ぎていく。検索したサイトを見せつけてやりたくなったが、そんなことをしても何にもならないのでやめた。
 二本目に火をつけた時、前のベンチに二人組の少女が陣取った。徐に金色の物体を取り出し、口にあてがう。トランペットだった。大仰な音が響く。時折小さな声と視線を交わしながら、一心不乱に吹いている。 楽器のことなど何も分からないが、素敵な音だった。無邪気でまっすぐで、一生懸命な音だった。声をかけようかと思ったが、何かが違うと思ってやめた。かけた後の後悔と強いられる整理が、怖かったのだと思う。
 愛する人にアンパンマンのテーマを弾き語る男性もいた。先の反省を活かし、首を振りリズムに乗ることで、図々しくも希望を与えようとした。しかし、数センチほどの首の動きが、彼らの領域を侵すことはなかったように思う。
 非力だなと自嘲し、会場へ向かった。

 大阪城音楽堂には、すでに半分ほど客が入っていた。指定された席にリュックを置くと、隣のカップルが一枚のグッズタオルを二人の頭に被せ、日光を凌いでいた。今日がとても暑いこと、喉が渇いていることに気づき、財布を持って立ち上がる。トイレの横に仮説喫煙所の案内を見つけてしまい、少し落ち込んだ。
 客席の最後方には、地方球場の外野席のように芝生が敷かれていて、テントも張られていた。開演まで四十分。あそこで本でも読んだら気持ちがいいだろうと思い、テントの中で読みかけの小説を開いた。客席は静かな高揚に覆われていて、多くの人間が芝生に目もくれずに酒を飲み、この日限定のTシャツを見せ合っていた。
 五分ほどすると、同年代らしき女性が近くに腰掛け、僕はリュックを見た。中には、仕事で来られなくなった友人のチケットが入っている。立見券に甘んじた誰かにそれを譲り、俯きながら立ち去る。その思惑は、前日の夜から密かに心に描いていたものだったが、声をかけようと逡巡しているうちに、彼女はぴょんと立ち上がり、友人らしき別の女性と合流した。こういうのは、瞬間の閃めきと勢いを行使しなければうまくはいかないもので、前日に思いついた時点で負けていたのかもしれない。
 一人は心細いなと、唐突に思った。だからといって誰か隣にいてほしいとも思えない。奇妙な感覚だった。
 彼女の退散を皮切りに、芝生エリアへ人が集まってきた。皆が興奮を抑えるように寝転がり、湿った笑い声で芝生を染めた。そういえば、余裕のある奴ほどギリギリに来るものだった、あの時もそうだったと独り言ちて、開く前と同じページに栞を挟んだ。

 ライブはあっという間に終わった。平凡に、生まれてきてから触れた音楽の中で最高峰だった。残酷なほど、彼らは手加減がなかった。
 たとえ同じ曲でも、彼らがもう一度全てを壊して、自力で現在地に帰ってきたのだと分かる。聴きたいように聴いているだけだし、そもそもアーティストというのは皆そうなのかもしれないが、それを、言葉を越えた方法で教えてくれたのは彼らだったから、本当かどうかなんてどうでもよかった。
 終演後、少し公園を散歩した。お堀を眺めながらタバコを吸った。ある精神世界に潜るためでも、客観から恍惚を獲得するためでもなく、ただこのバンドが好きなんだという、ありふれた答えに首を掴まれ、始終引き摺られていた。それは一人で大阪に来た事実よりもよほど心細いことだったが、向き合う価値のある孤独に思えた。
 大阪城公園はとにかく広かった。こちらを迷わせるのではなく、受け容れ、包み込むような広さだった。それがどうというわけではないが、なぜか、関西はいいなと強く思った。
 「ライブは終わった
 叩きつけるような決別を
 追うよりも追いつかれる残り香を
 感傷よりも、いつか追いつくと目を切る切実を
 悶えるほどに噛み締めて
 また出逢いたい
 ライブは終わった
 もう終わったんだ」
 貧乳美尻のAVを観るようにだらしなく主語を引き延ばし、感傷の沼で足湯をしながら、僕は僕に言い聞かせていた。

 ホテルに入り、風俗店に電話した。「ご予約でしょうか?」と問われ、今日はここまで一言も発していなかったと気づいた。
 逡巡がなかったといえば嘘になる。大切な音楽を聴いた後、いとも簡単に恋人と情事に及ぶような浅はかな人間たちを散々バカにしてきた経緯があるからだ。でも、そこに愛がないという一点に理屈を見出し、僕は性欲を肯定した。鬼頭が擦り切れ、精液の代わりに血潮が飛ぼうとも、セックスがしたかった。
 電話を切ってすぐに、この風俗はこの文章を見据えてのものではないのかという恐怖に襲われた。また「ネタ」にするのか、武勇伝の如くワンナイトを吹聴する大学生のように、得意げに書きたいだけではないのか。「恥」の象徴として、また安易に下ネタを行使するのか。それで何かを突き付けてやったと、また黴臭い悦に浸るのか。
 前提を処理しても、息つく間もなく次の前提が現れる。全部お前の結果だと突き付ける声は芯まで届かず、また理屈をこねる。「それなりの事情と覚悟を抱えた女性の生活費に貢献するためだ」というどうしようもないのを一つこしらえた時には、右手がドアノブを回していた。

 洗い場で触れ合う間、女はよくしゃべった。喫煙者だと伝えれば意外だと言い、パンクが好きと言えば、やはり意外だと笑った。「初対面で意外ってなんですか?」と問えば、「ちゃうねん、見た目がな」と、躊躇いなく無礼を重ねた。
 口臭の酷い、太った女だった。だらしなく爛れた腹は肝臓の辺りが異様に陥没しており、下腹部には吹き出物が飛び散っていた。相違点すら挙げるのが困難なほど、何もかもが写真と違っていた。全身に彫られたタトゥーも、唇に開けたピアスも、女が得意げに指をさすたび、出来損ないの福笑いみたいに収縮した。
 案の定、一向に勃たず、自分は面食いなんだと思った。いつかの合コンで好きな女優を問われ有村架純と即答したのを思い出し、なぜだかひどく打ちのめされた。自分が面食いではない理由を探している間にも、女はぶくぶくと太っていくようだった。
 ベッドに移動し、舐めてしごかれた。思いのほか上手く、本番行為をねだった。七千円か八千円かで少し揉め、結局手で果てた。初恋、高校時代のチアリーディング部、公式戦のチケットをねだる時だけ連絡してきた女…。目を瞑っている間、海馬の奥でそれらの女が狂おしく踊っていた。僕はそいつらを如何ようにもできたし、彼女たちは従順だった。その間、女は臭う唾液で僕の左乳首を転がし、たまに吸った。
 余った時間に、女は熱っぽくメタルを語った。頼んでもいないのにYouTubeでライブ映像を再生し、「これやで」と見せてきた。「いいですね」と言うと、「家にプロジェクターあんねん」と自慢気に続けた。音楽や映画を垂れ流しにしながら昼寝をするのが休日の癒しだと、そんなようなことを言っていた。
 翌朝。六時半に外へ出ると、不思議と街の至るところで女の匂いがした。タッチの差で逃した電車も、粘ついた口内も、押し間違えたスポーツドリンクも全て同じ匂いがした。早く東京に帰りたいと思った。
 ずっと悲しみを纏う人に憧れてきた。でも僕は気の毒で痛々しいだけで、ワキガのように誰も指摘できなかったのだと思うと悲しい。直接これを言えば、自意識過剰だと慰められるか困らせてしまうだけだろうし、肯定されたらされたで、間違いなく逆上してしまうのだろう。どちらの選択肢も、あの女ならやりかねない。

 余裕を持って乗り込んだ、昼行便の高速バスでこれを書き始めた。日曜の渋滞に巻き込まれ、二時間経っても大阪から出られず、異常か否かも分からないまま通路側でただ揺られていた。何の説明もないまま到着した最初のサービスエリアで、東京には売っていないカールを思わず買ってしまい、バスに戻るのが恥ずかしくなった。
 走行中、となりのおじさんは身を固め、じっと目を瞑っている。木の皮みたいな地肌が思いのほかよく似合い、休憩所に着いては先を譲る僕に、小さな声で、「ありがとう」と言う。彼がバスに戻るたび、同じ銘柄の炭酸水が、一本ずつ増えていく。

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