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「大化の改新」って何ですか? ~蘇我氏=「悪」に物申す~   京大歴女のまったり歴史講座⑵

小学校の歴史の授業で必ず出て来る「大化の改新」。

天皇家をないがしろにしていた横暴な蘇我氏(正確には蘇我本宗家)を、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が成敗した。

学校の先生は、そんなふうに説明してくれたのではないでしょうか?

え、そうじゃないのかって?

たとえば関ヶ原の戦いで、負けた石田三成が悪、勝った徳川家康が正義なのでしょうか?

そんな単純な話ではないですよね。どちらにも、立場があり言い分があると考えるのが当たり前のことでしょう。

それなのに、「大化の改新」というと、なぜ誰もが「蘇我入鹿=悪」と捉えているのでしょうか?

小学校時代、家族旅行で奈良に行き、「蘇我入鹿の首塚」を見ました。

斬り落とされた首が飛んで来た場所に作られた、と伝わる首塚。

一目見て、幼いわたしは驚きました。

田んぼの中にあったその首塚の前には、なんと、真新しいお花が供えられていたのです。

地元の人たちに、今も供養してもらえる彼は、本当に「大悪人」なのだろうか?

ふと疑問が芽生えました。

そもそも、私たちが知る歴史とは「勝者の歴史」です。勝った側が、自分たちに都合のよいように記録してきた歴史。

今日は「勝者」の覆ったヴェールを剥がして、滅びた者たちの声なき声に、そっと耳を傾けてみたいと思います。

○蘇我の「祟り」

そもそも、ほんとうに彼らの「声」は消し去られてしまったのでしょうか?

ここで、興味深いお話をご紹介しましょう。

既に多くの書籍、多くのサイトで指摘されていることですが、「蘇我入鹿の祟りではないか」と言われる現象が、「日本書紀」をはじめさまざまな記録に残っているのです。

たとえば、平安時代に成立した歴史書「扶桑略記」。
そこには、「大化の改新」で滅ぼされた蘇我氏の霊が、幾度も姿を見せています。

斉明天皇の時代、多くの臣下がにわかに病死し、蘇我入鹿の霊のしわざだと噂された、という記述。

又、斉明天皇のお葬式の際にも、「その様子を遠くから『鬼』が見ていた。人々は、蘇我入鹿の霊だと噂し合った」という趣旨のことが記されています。(斉明天皇は、蘇我入鹿殺害の現場に居合わせたのに、助けを求めた彼を見捨てた人物です)

ここで大切なのは、本当に亡霊が出現したのか、「祟り」があったのかではありません。「祟り」の噂が出たという事実です。

なぜなら「祟り」を気にするのは、自分たちがなにか後ろめたいことをした側の人間だからです。

もし、中大兄皇子が「横暴な大悪人」を成敗したのなら、人々は彼らの亡霊におびえる必要もないはずです。自分たちは「正しいこと」をしたのですから。

「祟り」は古代~中世の歴史を読み解くキーワードのひとつです。詳細は後日に譲りますが、「祟り神」として知られる人物は皆、罪無くして殺されたり、陥れられたりした人たちです。

蘇我入鹿もまた、斬りつけられた時、天皇に向かって「わたしに何の罪があるのか」と問いかけました。

この言葉の持つ意味を、わたしたちは、もう少し噛みしめてみようではありませんか。

○中大兄皇子の思惑

中大兄皇子(後の天智天皇)は「入鹿は皇族を滅ぼし、天皇家を倒そうとしていた」と入鹿殺害の理由を述べています。

しかし、この言葉は真実でしょうか?

既に蘇我本家は、朝廷においてナンバーワンの実力を持ち、実質的に政治を運営していました。

更に、次期天皇の最有力候補となっていたのは蘇我入鹿のいとこにあたる、古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)。(実際に、皇太子になっていたという説もあります)

彼が天皇となれば、蘇我の天下はますます盤石のものとなるに違いありません。

そんな彼らが「天皇家を倒す」ことに、果たしてリスクに見合うメリットがあるでしょうか?

天皇家を倒し、自らが皇位に就くなど、飛鳥じゅうの豪族を敵に回しかねない愚行でしょう。

では、少し視点を変えて考えてみましょう。

古人大兄皇子が次期天皇になって困る者は誰か?

それは、中大兄皇子。

古人大兄皇子が天皇となれば、現天皇の息子である中大兄皇子には、皇位が巡って来ないということになりかねません。

彼が古人大兄皇子を押しのけて、将来の天皇になりたいとしたならば、

最も邪魔な存在は、古人大兄皇子の強力なバックアップ、蘇我蝦夷・入鹿親子です。

実際、蘇我入鹿が殺害された約4か月後、後ろ盾を失った古人大兄皇子は「謀反の疑い」というでっち上げで殺されています。この時手を下したのは、もちろん中大兄皇子。

一連の流れを追ってみれば、「皇位につきたい中大兄皇子のクーデター」という裏の思惑が、透けて見えるのではないでしょうか?

また、興味深いのは、殺された入鹿、自殺した父の蝦夷の遺体が、「墓に埋葬する」ことを許されているという事実。彼らの死後、家の財産が没収されたという形跡もありません。

たとえば、朝廷から「討伐」された「謀反人」の場合、他の例を見ても、葬儀も禁止、遺産は没収といった扱いを受けることがほとんどです。

もし蘇我入鹿が、中大兄皇子の言った通り「天皇家を倒そうとしていた」人物ならば、こうした丁重な扱いが許されるでしょうか?

以上の事実を見ても、「大化の改新」は「悪人・入鹿の成敗」ではなく、「皇位をめぐる勢力争いの一環」と捉えるべきでしょう。

○おわりに

歴史の授業でおなじみの「大化の改新」。その裏側を、ごくかんたんに紹介させて頂きましたが、いかがでしょうか?

もちろん、「大化の改新」の背景についても、ここでご紹介した以外にさまざまな仮説が立てられています。

ほんとうの経過は、前後を含めてもっと複雑。上宮王家滅亡事件をはじめ、語りたい内容はいくらでもありますが、初回の記事はこのあたりでまとめさせて頂きます。

「勝者」の立場ばかりでなく、すこし視点を変えて、「敗者」に眼を向けてみる。

それだけで、歴史の見え方はまったく変わってきます。

皆さんも、これから歴史に触れる際、ほんの少し、「教科書の歴史」を疑ってみてはいかがでしょうか。 (終)


〈追記〉

正確には「大化の改新」とはクーデターの後に行われた一連の政治改革を指し、蘇我入鹿の殺害にはじまる事件は、「乙巳の変(いっしのへん)」と呼びならわすのが普通です。しかし、本連載の目標は、歴史にあまり興味の無い皆さんにも、その面白さや、教科書とは異なる視点をわかりやすく伝えること。そのため、記事では、みなさんになじみの深い「大化の改新」という表現を使わせて頂きました。ご了承ください。

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