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フランス最高の王妃アンヌ (後編) 京大歴女のまったり歴史講座⑤

※有名なフランス国王ルイ14世。その栄光の影には、彼を「太陽王」たらしめた母の姿がありました・・・。ルイ14世の母・アンヌ=ドートリッシュ。彼女の波乱の生涯を辿ります。
はじめての方は、「前編」からご覧ください。


○反乱軍、王宮に侵入!~逃避行のはじまり

長引く戦争と、慢性的な戦費の不足、改善しない生活・・・。人々の怒りの矛先は、スペイン出身の王妃と、イタリア出身のマザランに向かいます。

講和条約の締結に向け、交渉がはじまっていたその頃、パリのマザラン邸には、石つぶてが雨あられと投げつけられていました。フロンドの乱のはじまりです。

暴徒と化した民衆は、王宮の警備をやぶり、当時10歳だったルイ14世の寝室まで侵入しました。

この時アンヌは寝室に駆けつけ、身を挺して息子を庇ったのだと言います。まさに「母は強し」ですね。

しかし、事態の打開は見込めません。パリの街には、アンヌに反対するビラが撒かれ、「マザランを罷免せよ」との声が飛び交います。

これ以上、息子を危険にさらすわけにはいかない。

1648年1月5日の深夜。マザランの手引きのもと、アンヌとルイ14世は王宮を脱出し、サン=ジェルマン=アン=レーの離宮へと避難します。

何しろ突然の脱出劇。アンヌとルイは、折り畳み式の簡易ベッドで夜を明かし、他の従者たちは、藁に身を横たえて眠ったと言います。

この年は100年ぶりの寒波が押し寄せた冬。暖房も満足に無い離宮の部屋で、アンヌは震えながら夜を明かしたことでしょう。

窮地のアンヌに救いの手を差し伸べたのは、対スペイン戦線で戦っていたフランス王室軍でした。

名将・コンデ親王率いる王室軍は、戦地から戻り、パリの反乱軍を包囲。反乱軍側も折れて、妥協が成立します。

しかし、危機はこれでは終わりませんでした。

○再度の反乱、軟禁生活

アンヌの危機を救ったコンデ親王は、すっかり付け上がり、横暴な振る舞いをはじめます。マザランとアンヌは、やむなく彼の逮捕という非常手段に踏み切ります。これが第二の反乱の導火線となりました。

王室側の仲たがいに、一度はおさまった反乱軍が呼応。更に、この機にルイ14世から王位を奪おうと、王族たちが暗躍を始めます。彼らは、国政をあずかるマザランを「共通の敵」として結束しました。

命の危険にさらされたマザランは変装してパリを脱出、フランス国外への亡命に追い込まれます。

マザランさえ失脚すれば、後はしめたもの。反乱軍は、アンヌと王子たちを宮殿に閉じ込めます。軟禁生活は、約1か月にも及びました。

まさに絶体絶命。しかし、アンヌはかつてのように不幸に打ちひしがれる女ではありません。

フランスを、そして最愛の息子を守らねばならない。

アンヌはひそかにマザランと連絡を取り合い(おそらく暗号文の手紙でしょう)、希望を捨てていませんでした。彼女はじっと待っていたのです、ある「時」が来るのを。

そうしてようやく、「その時」がやって来ました。アンヌの息子・ルイ14世が13歳の誕生日を迎えたのです。

当時のフランス憲法は、13歳を成人と定めていました。成人となれば、ルイ14世が正式に、フランスの統治者となります。

これまでマザラン憎し、あるいは敵国出身の王妃への反発で結束していた反乱軍側に足並みの乱れが生じはじめました。

1651年9月。ルイ14世、議会で成人宣言。

その堂々たる姿の前に、議員たちは皆、ひざまずいて、若き国王への忠誠を誓いました。

幾度かの騒乱と、粘り強い交渉の末に、フロンドの乱と呼ばれる一連の反乱が終息するのは1653年のこと。

国外に身を潜めていたマザランに、アンヌは晴れて手紙を送ります。フランスに戻るように、と。

○マザランの死
宰相に返り咲いたマザランと、反乱を鎮めたアンヌには、まだひとつ、大仕事が残っていました。スペインとの和平です。

1659年、マザランの尽力により、スペインとの長年にわたる敵対状態に、ようやく終止符が打たれます。

ようやく実家との戦争を終えて、アンヌは肩の荷が下りたことでしょう。思えばこの時が、アンヌにとってもっとも幸せな時期だったのかもしれません。

それから一年後、彼女を支えてくれたマザランが、帰らぬ人となりました。毎日見舞いに訪れ、献身的に看病をしたというアンヌ。その思いに応えるかのように、彼は遺書の中に、こう記していました。

自分の心臓は、サン・タンヌ・ラ・ロワイヤル教会に埋葬してほしい、と。

それは、かつて王妃アンヌが寄贈した、アンヌゆかりの教会でした。

イタリアに生まれ、フランスとは縁もゆかりもなかったマザラン。

そんな彼が、「外国人」と非難され、国外亡命の憂き目にあってもなお、生涯を異国フランスのために捧げたのは、アンヌがいたからこそではないでしょうか。

また、愛の無い結婚で、辛酸をなめつくしたアンヌにとっても、マザランとの出会いは終生の宝となったことでしょう。

マザランは、アンヌの息子・ルイ14世にもたいせつな助言を残していました。

王としてどうあるべきか、いかにフランスを統治していくか。

闘病のさなか、ベッドの上で、マザランは幾度もルイ14世に講義をしたといいます。マザランの「最後の授業」を、ルイ14世は真剣に聞いたのでしょう。

彼の死後、ルイ14世は宰相を置かず、みずから政治を執り行うことを宣言します。

同時にアンヌも、政治の表舞台から身を引きました。

息子はもう、ひとりでもやってゆける。重い肩の荷を、この時アンヌはようやく下ろしたのではないでしょうか。

○毅然とした王妃の死

晩年、乳がんにかかり、65歳で息を引き取ったアンヌ。

その闘病生活は過酷でしたが、アンヌは、激痛の発作が襲って来ると、決して息子たちを病室に入れませんでした。

その真意はなんでしょう。私が思うに、

苦しみ、のたうち回る自分の姿を見せたくない。
毅然とした美しい姿で、息子の記憶に残りたい。

そんな自負心ゆえではないでしょうか?

最後まで、彼女は王母としての生き方を貫いたのです。

アンヌを看取った時、息子のルイ14世は言いました。

「王妃アンヌは、我が国の偉大な国王たちに匹敵する」と。

つらい前半生を潜り抜け、大輪の花を咲かせたアンヌ。

大混乱のフランスを治め、「絶対王政」の基礎を築いた彼女は、わたしにとっても「フランス最高の王妃」です。

(終)

追記:「フロンドの乱」の経過は、実際はもっと複雑ですが、本記事では詳細を省略し、大まかな説明にとどめました。ご了承ください。


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