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映画『哀愁しんでれら』の余韻の中で

哀愁しんでれらは不思議な映画だ。

1回目観賞後、特にラストシーンに一瞬呆然とした。

私は何を見せられたのだろう。

美しい映像美につられて、いつの間にか凄いところに連れて行かれたような、裏切られたような気持ちになった。

けれど頭の中で小春や大悟、ヒカリのことを考えれば考えるほどに色んなメッセージが湧き出てきた。

家に帰ってまず子どもを抱きしめたくなった。

今ある幸せを噛み締めたくなる。

毎日頭から離れない、そんな映画だった。

オープニングは何度見てもゾクゾクする。

気づかずに歩いていくうちに、とんでもない場所に到達するかもしれない。

そんな恐ろしさを一瞬の、それも美しい映像で表現するものだから…   
渡部亮平監督、恐るべし。

前半から後半にかけてガラリと変わるこの映画。

幸せへと駆け上がっていく小春の姿を美しい映像や音楽で表現していく。

そして幸せ絶頂のダンスシーン。

予告編を見た時に唐突にダンス?
と少し不安を感じていたのだが、家族の幸福の絶頂の瞬間をあまりにも美しく表現していて、後半と前半の幸福の高低差を描く為には、もの凄く意味のあるシーンだった。


この映画のオープニングと幸せ絶頂のダンスシーン。

そしてエンディングは同じ曲。

もちろんアレンジは違うけれど、同じ曲を聴いてこんなにも受け取り方が違うのかと…困惑する。

幸せで涙が出そうな曲であり、苦しく切ない曲にもなる。

俳優さん達の演技はもちろんのこと、音楽と共に感情が高まったり沈んだり、どう表現すればいいのか分からないがメリーゴーランドに乗っている気分になる。

いや、メリーゴーランドに乗っていたら急に暗闇にいたような…
もはや乗っていたのは馬では無かったような…


映画の余韻の中で考えていた。

なぜその女性は、社会を震撼させる凶悪事件を起こしたのか

それは『幸せを求めたから』ではないか。
誰もが幸せになりたいと思っている。



幸せにならなきゃね。

親としての覚悟。

ちゃんと母親になる。

親なんだから。

親としての自覚。



こういう言葉の数々が、刷り込まれた先入観が、こうあるべきという決めつけが、人を苦しめているのかもしれない。

“愛される母親“

“理想の母親“

“真の親“

“素敵な家族“

この言葉が生み出すものは幸福か不幸か。

ずっと望んできたものが、実は自分の未来を蝕む呪文だったのかもしれない。

この映画はおとぎ話では無い。

どこにでもいる人達が招いた凶悪事件だから恐ろしいのだ。

それぞれが幸せになるために進んでいるのに、偏見や思い込みでとんでもないところに到達することは、誰にでも起こり得る事だから恐ろしく切ない。

この映画をみて、ものすごくハッピーな気持ちになる人はいないのかもしれない。

だけれども立ち止まって今ある幸せを大切にしたいと思えるそんな作品だった。

私は今でもこの映画の余韻の中にいる。

この作品について私が書いたnoteはこれで8本。
どれだけメリーゴーランドに乗った事か。

こんな映画は初めてだ。
もう当分は出会いたく無いほどに私の頭の中を占領した。

渡部亮平監督、私の心を揺さぶりやがって…素敵な映画をありがとう。


哀愁しんでれら関連のnoteはこちら


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