3 極端な思考は人間だから故であり


柔軟に物事を考えられない、という性格は昔からであり、一度決めたことは意地でもやり通さなければ敗者になる気持ちがしてしまう。

性格診断をすれば、完璧主義という名で隠されたネガティブなイメージが結果として反映され、人間の性格を誰が作成した分からないWEBサイトに批判されたくないわ!と地雷があるエリアに自ら足を踏み入れるような行為を繰り返す。

ただ、人間はどうやら「間」を捉えるのが苦手らしい。

先日読んだ本に人間が「移行的地位」の取り扱いに不慣れであることが記されていた。例えば、「被告人」になった途端に「罪人」と同義で扱ったりするような、両義的な存在の扱いに疎いということである。

たとえ移行的地位でなくとも、多面的に物事を捉えて判断することは複雑で、労力のいる作業である。社会のバイアスや偏見を出来るだけ排除して思考できる人間などほんの一握りであろう。よく、バイアスや偏見の自覚を持つことが大切である、というが、自覚を持ったとて行動に反映されなければ無意味なのでは?と考えてしまう。

「間」に正解はない。色んな意見があり、それは全て許容される。0か100かで物事を判断しがちな私にこの概念が恐ろしく不得意なのだ。不得意、というのは「好き嫌い」という感情ではなく、考えれば考えるほど色んな見方に遭遇することに疲弊してしまうニュアンスかもしれない。


人間は分類を好むから、生活の全てがカテゴライズされており、異なる2つの分野にまたがる事象をどちらに含めるかでそれぞれ議論がなされる訳だが、数世紀にまたがるレベルで議論をし続ける人間を哀れに思う一方、両義的な事象に不得意さを感じる、このアンビバレントな沼に堕ちながら死んでいくと思うと、一体何がために生きているのかため息をついてしまうのであった。

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