4 隣の人間のことなど何も分からないのに


電車は嫌いだけれど、徒歩以外で大衆的な移動手段しか使用することのできない自分の価値の低さを戒めながら今日も電車に乗った。

私の最寄りの路線はそこまで満員電車というわけでもないが、時間帯によっては座席が埋まり立たなければならない程度の混み具合である。
隣に座る人間の匂い、衣服の繊維、視界に入るスマホの画面。電車の中の人間との近さに息が詰まる。パーソナルスペースに際どい距離。ふと自分の脚や対面の人間の隙間の窓に映る自分の顔面に目を向けるが醜い姿に落胆する。

情報過多の電車内は、色んな人間がいて、それぞれが目的の地に向かう。

隣の人間がどんな人間か知る由もない。一生でその一瞬しかすれ違わないかもしれない。犯罪者かもしれないし、明日死ぬかもしれない。プロポーズされた直後かもしれないし失恋したばかりかもしれない。

人間は自身の生に必死であり、移動中の電車内で隣に座る人間の情報まで思考する余裕、というか暇はあいにく持ち合わせていない。

ただ、他人がパーソナルスペースギリギリまで接近するほど密に交わる生活は、果たして私たちにポジティブな効果をもたらすのだろうか?

友人や恋人、親族ですら自分以外の人間を知るなど不可能なのに、多くの人間と交わらなければいけない世の中に疲弊してしまった。なぜ隣の席に座る人間がどのようなものか気にしているのか?と考えてしまうほど情報の選別が不可能になってしまったのだろうか。

もちろん不要な情報は選別して排除しなければ記憶の貯蔵が出来ないわけで、それは人間の構造的に当たり前なのであるが、逆に対人における「必要な情報」とは何であろうか。

私は相手の何を見れば良いのだろう。どんな情報が必要?そんなことを考えていたら対人関係の構築に障害が出てきてしまうと恐ろしくなったので思考を遮断した。

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