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    雨の季節だった。もっとも一年を通して時ならぬ大雨が頻繁になったのでその季節を現す言葉がすっかり目立たなくなっていた。それでもさまざまに暮らしを彩って思い出を残した季節に、人は疎まし気に空を見上げながらも愛着のような気持を持ち続けている。
    最後に見たのはいつだっただろう。僕は歩道の敷かれたコンクリートのパネルが崩れたところにできた水たまりを見てそう思った。パネルとすぐ横の建物の縁の相性が悪かったのか、せめぎあいの果てにパネルは半ば砕けていた。その傷を隠すように水が溜まっていた。
    水たまりは子どもの頃は友達だった。からだが弱かったせいであまり学校にはいけなかった僕は、友だちと通学するのに憧れて体調のいい時に一人で国道のわきの歩道をあるいた。水たまりはほとんどいつでもあった。しゃがんで上から覗きこむと薄暗い空と少し陰になった自分の顔が見えた。帽子のせいで顔はよく分からなかったが眼の白いところが光っていた。大型トラックが迫ると、水たまりの表にびりびりと皺ができ、車が走り去るとその皺は周辺に散って、また空が映った。よく見れば雲も映っていて動いていた。またトラックが来た。車の残したらしき油が虹の模様を描いた。めったに出ない虹が地面の空にはほとんどいつも出ていた。その虹は歪んでいて、泥のような空にはお似合いだった。水たまりが美しかったことは一度もなかった気がした。それでも僕は水たまりがあるとのぞき込んだ。

    彼女の腹の上に汗が溜まっていた。どちらの汗か分からなかった。筋肉があるとは思えないほど白く柔らかな脂肪におおわれた腹にも目立たないうねりがあり、その低いところにじつに正直に汗が流れ伝って小さな溜まりをつくった。僕からしたたった汗と彼女から湧き出た汗が交じって虹の模様を描いていた。

    頭から熱いシャワーを浴びた。滴が飛び散った。この滴もどこかに降った雨だった。巨大な水たまりからやってきた雨の末裔だった。扉が開いた。
「いっしょにいい?オイルをちゃんと落としたいのに時間があんまりなくて」
そういう思いやりのある接客が彼女を多忙にしていた。彼女を十分に休憩させない悪客に僕は憤慨した。
「怒らないで、わたしはいいの」
驚いて脇に退いた僕を尻目に彼女はさっさと入ってきて気持ちよさそうにミストに身を任せた。彼女の白いからだのせいで浴室はさらに明るくなった。彼女の肌に水滴が跳ね返るのを見るのは楽しかった。滴の微かな傘に収まろうとしてに二人は自然ふれあってしまった。少しからだをかわそうとする僕に彼女がすり寄った。肌が暖かだった。
「時間がないんでしょ」
「少しはあるわ」

    彼女はそれからはいつも僕と一緒にシャワーを浴びるようになった。ミストをまともに顔で受けるときの眼を閉じた表情が美しかった。惹きつける顔だった。浴室での愛の時間がどんどん長くなっていった。ぴったりと合わさった二人のからだを透明な流れがおおい、滴たちは少しの隙間も逃さずに忍び入って僕らの愛をくすぐった。夢心地だった。僕は思い出した。

「君のことを知ってる」
彼女は少しうつむき、口に手を当てておかしそうに肩を震わせた。
「よく来てるじゃない」
彼女はそういうと僕を見るなりすがりついた。彼女が何かを見ないようにしてる、気がつかないふりしてると感じた。それは女の科や生まれながら身についた瞬時の企みには見えなかった。
「どうして知ってるの?」
「子どもの頃に会ったから」
「思い出したのね」
水たまりをのぞき込むといつでも彼女がいた。彼女は影ではなかったから僕を見ているのが分かった。少女だったのかいまここにいる若い女性だったのかがまるで思い出せない。彼女は彼女だった。
「すてきな恋ね」
「君も?」
「好きじゃなきゃ出ていかないわ、ここであなたに会えてほんとうにうれしかった」
彼女はいつもの落ちついた表情でにっこりと微笑んだ。透き通ってしまいそうなほどきれいだった。初めて彼女にくちづけをした。
    僕たちは降り注ぐシャワーの下で心ゆくまで愛し合った。僕らは一つになりたいと願って一つになり、離れて互いを見たいと思って二つになり、また一つになった。雨は降り続いていた。水たまりに跳ねる水滴は踊って二人を祝福した。

「また会えるわね」
そうつぶやくと彼女は栓につながっている鎖を引っ張った。粘っこい液体の水圧が抵抗したが、するするっと鎖はすべって栓が引き上げられた。僕は音も立てずに渦を巻きいったん地上から去った。大河へ、そして海へ、そして空へ。彼女と再会するための旅が始まった。彼女が水たまりを見つけてくれれば。

終り

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