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『ペル・パラベラム・アド・アストラ』Day 2-⑤ 杉並幸太郎

 地下鉄ドアの側に立ち、暗い壁がスクロールしてゆくのを眺めている。時折視界が軽くフラッシュする。壁に埋め込まれた標識的なものが放つ白と緑の光――暖かいのか冷たいのか、ドアガラスに触れて確かめようとするが、ボクの手が触れる前に光は過ぎ去っている。これが時間というやつなのだろう。32歳、あと数か月で一児の父となる。

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「どうして?ボクは君の敵じゃない」
「敵よ。だってアンタさっき……退屈の味方をしたもの」
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 クソビッチがボクを敵認定した瞬間のセリフだ、
 ボクは退屈の――味方?

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「先生は、私の人生を一時間ずつ殺している。だから、私には先生を殺す権利がある。セット」
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 鈴原あゆ実は、一時間ずつ人生を殺されていると訴えた。彼女にとってボクの授業は、退屈で無意味で、ただ人生を浪費させるだけの謎時間という認識なのだろう。
 彼女の言うことが正しいとしたら、ボクは既に何人もの生徒を殺していることになる。

 受講した生徒の人数×総授業時間÷一生分相当の時間=殺害人数

 警察官だった父、教師だった母、どちらが名付け親なのか知らないがボクという物体は”幸太郎”と命名され、今地下鉄に揺られている。
 両親がボクにインプットした幸せ、一言で言うと”波乱の無い安定した時間の継続”だ。間違っていないと思う。産まれてくる赤ちゃんにもそんな一生を送って欲しい。だから名前には”幸”という字を入れるつもりだ。

 安定=幸せ
 安定=退屈
 幸せ=退屈

 違う……ボクは退屈を望んでいるわけじゃない。波乱は不幸だ。避けるべきだ。ボクはこんなセカイを望んではいない。

「セット」

 車内の誰かが言った。まあまあ混雑している。誰が言ったのかは分からない。ボクに言ってるのかも分からない。うちの学校の制服もちらほら見える。ボクは、生徒全員から敵対視されているのだろうか……。

 電車が駅に着いた。ボクは降りる。ドアが閉まり、電車は再び、暗い穴の中に引きずり込まれてゆく。正体の分からぬ殺意を少なくとも一つは乗せて、それを暗い壁に埋め込まれた眼差しで、刹那に見つめながら――。

 駐輪場に向かう。今日はカレーだと聞いている。加奈子と赤ちゃんが幸せなら、ボクという物体はどうなっても構わない。心からそう思っている。だけど面倒なのは、ボクが幸せでないと、加奈子もそして多分赤ちゃんも幸せになれない可能性が高いということだ。
 家庭とは――”複合人格生命体”だ。”統合人格生命体”と言い換えても良い。会社が法人格と見做されるように、学校や町内会、部活やサークルなども時として同じくそうである。
 
 ボクは――死ぬ訳にはいかない。後5日間、何としても生き延びてやる。”ボクという家庭の一部”を傷付けようする者が現れたら、生徒だろうと教師だろうと、子どもだろうと老人だろうと、殺す。
 電柱を蹴ろうしている赤く爛れた雲の寄せ集め、まるで一つ眼の怪物。鞄に手を入れ、冷たい感触を確かめる。
「明日の朝はミニカレー丼と目玉焼き、あとサラダも付けてもらって――」


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