『ペル・パラベラム・アド・アストラ』Day 2-⑥ 杉並幸太郎
「おかえりなさい」
マンションのドアを開けた途端、目の前に笑顔。
「びっくりするじゃないか加奈子」
マンションの玄関、手摺に掴まって斜めになっている細いシルエット、カレーのにおい。玄関に折りたたまれた車椅子。
「だって今日カレーなんだもん」
意味が分からない。
「お風呂は後、先に食べて」
「普通聞くだろ『お風呂にする?それともお食事』って」
「だってカレーだよ?」
言い終わらぬうちに手摺を掴んで飛ぶようにリビングに向かう後姿、脚を引きずりながらも凄い速さだ。木から木へ跳び移る森の動物を連想させる。新婚数か月目だったか「テナガザルみたいだね」って茶化したら、頬を膨らませて膨らませて弾けて天使のように笑った。あの瞬間にまた零からボクの恋愛は始まった。靴を脱ぐ。
「帰って来る途中で――」
「うん」
「公園の辺りから凄いスパイスの効いたカレーのにおいがして、ご近所さんからにおってきてるんだど思ったけど……まさかうちからだったとは……正直ちょっと驚いてる」
「なんで?」
「たぶん、この町内すべてがこのにおいに包まれている。カレーって、凄いな」
本心は違う、カレーは凄くない、普通の食べ物だ。ただし加奈子が作るカレーは、普通ではない。それだけのことだ。
「でも、スカンクの臭いって、数キロ先まで届くっていうし、別に凄くはないと思う」
「……ちょっとクラクラしてきた。このにおい胎教に悪いんじゃないか?」
「でも、スパイスって漢方薬と同じだから――クローブは丁字だし、ターメリックはウコンだし、体に悪いはずないよ」
「ボクがよそうから座って」
肩を貸し加奈子を椅子に座らせ、カレーを皿によそう。眩暈がする。美味しそうなにおいではあるんだけど、強すぎる。倒れそうになりながら、椅子に座る。なんだか部屋の空気が黄色い気がする――黄沙の影響だろうか?
「先に食べて」
「……ボクが?」
「うん、感想を聞かせて」
「美味しいよ」
「まだ食べていない」
「……頂きます……んぐ」
「どう?」
「愛している」
「じゃなくて、料理の感想は?」
「食べたよ。そして味わった。でも愛してる」
「良かった。気に入ってもらえて」
皮肉が通じるような相手ではなかった。スパイスは漢方薬だって言ってたけど――漢方薬の味だ。我慢して完食する。
「明日の朝もカレーでいい?あと目玉焼きと、そうだ!サラダも付けるわ」
「……それでいいよ」
「このカレー、絶対に体にいいから、幸太郎さんがお仕事頑張れるように色々調べて作ったから」
「やっぱり美味しい……いや、惜しいかな。加奈子は、隠し味を隠せるようになったら、もっと料理が上手になると思う」
「隠し事できない性格だから」
「そうだね、分かってる。お風呂入って来る」
立ち上がってよろける。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだ」
部屋の壁にはすべて、手摺を付けてある、加奈子が自由に移動できるように。手摺に掴まり、脚を引きずりながらバスルームへ向かう。背後から――。
「やーい、テナガザル」
と囃す声。振り返らなくても分かる。どうせ笑顔は、天使だ。
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